書籍・雑誌

October 18, 2010

『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』

 岩波書店、2007年。

 御大ハーバーマスと、後の教皇ラツィンガー枢機卿とが、2004年1月にミュンヘンで行った歴史的対話の記録。
 残念ながら、両者のいわば基調講演のみが今回の翻訳で、その後の討論の部分は公開されていない。

日本では、ポストモダンといえば相対主義に行き着いたまま雄々しく思考停止し続けいてる感があるのだけど、その先の対話を大物同士がやっちゃうというのは、ヨーロッパっていいなぁ、としか。

 それ自体では手続き合理性でしかない民主主義の国家権力に対して、ハーバマスは「単なる共存体制=暫定協定」以上のものを志向して論を展開していく。

世俗化された市民は、国家公民としての役割において公共の場で論じるときは、宗教的な世界像には原理的に見て真理のポテンシャルがないと言ってはならないのであり……

 と、言ってるにもかかわらず、訳者解説が見事にやらかしちゃってる件。ま、宗教音痴の日本では仕方ないことかも知れないけど。

 訳者解説(本書の半分は解説)では、共産主義を恐れるあまりカソリックはナチズムとも手を組んだ……的なストーリーが語られてるけど、これをそのまま冷戦時代に持って行ったのが、『aa 1025』という胡散臭い偽書になるのかなぁ、とか。旧ソ連の工作員がカソリック教会に入り込み、たまたま交通事故で病院に運び込まれたときに持っていた文書……という設定の偽書なんだけど、出自のデタラメさに反して、同種のシオンの議定書と同じく、中身に関してはとてもリアリティがある。カソリック自体に興味がなくとも、近代批判の視点からだけでもとても面白い怪文書。

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June 28, 2010

『史的システムとしての資本主義』など


 手元にあるのは岩波現代選書の方だったけど、新版が出てるようですね。
 具体的な歴史叙述はなく、理論的な枠組みをコンパクトにまとめた本。そのため、「あ、いよいよ面白い話になってきた!!」と思うと次の話題に行ってしまう、というのを全編で繰り返すことに。もっと面白い話が読みたければ大著の方に手を出せということか……
 訳者あとがきの最後のページに、ふと見たような文字で古い日付が書き込まれていました。
 11 avril '85
 てっきりダンナが買った本だと思ってたけど、どうやら亡き父の蔵書だったようです。読み終わると日付書き込んでたんですよね、あの人。こんな面白い本に出会えてたんだなぁ、良かったなぁ、と。四半世紀を経て、不思議な邂逅です。

 あと、NHKでやってた「ハーバード白熱教室」をちょくちょく見てたんですが、これも面白かった。正義とは、善とは、倫理とは、というようなテーマで、身近な実例にかんして学生の意見を聞くかたちで授業を進めていきます。さすがというか、学生たちの受け答えもはきはきと論理的。反対意見を募ってもすぐに手が上がる。マイケル・サンデル教授は対立点をメタ化したりフレームワークをずらしたり、みごとな船頭っぷりです。ロールズの前段としては、ほとんどアリストテレスとカントぐらいしか扱ってないんだけど、しっかり政治哲学してる。
 最終回もなかなか感動的だったんですけど、私は何とも言えない「鼻持ちならなさ」も感じました。さあこれでハーバード卒業生として恥ずかしくない議論の土台を身につけられただろう?これが正しい議論の枠組みでありルールだよ、みたいな。知的誠実さとは別種の、サービス産業としての商品性の高さ。
 それでウォーラーステインをぱらぱらと読み返してみると、こんな記述がありました。


 普遍主義の基本は、……世界にかんして普遍的かつ恒久的に正しい、何か意味のある一般論が出来るという信念にある。さらに言えば、すべてのいわゆる主観的な要素を--つまりすべての歴史的に制約された要素を--排除したかたちで、一般的公式を追い求めるのが科学の目的だとする立場である。
 普遍主義への信奉こそは、史的システムとしての資本主義が組み上げたイデオロギーのアーチの頂点に置かれた要の石であった。……このイデオロギーの製造工場となり、この信仰の神殿となったのが大学であった。ハーヴァード大学はその紋章を「真理veritas」という言葉で飾っている。一方では、絶対的真理などというものは決して知りえないのだとつねに言われており、このことこそが近代科学を中世の神学から区別するゆえんだとされながら、他方では、真理の探究こそが大学の存在理由であり、もっと広くいうと、すべての知的活動の存在理由なのだとも、たえず主張し続けられてきたのである。……アメリカで市民的自由を政治的に正当化するために好んで用いられてきた論法は、「思想を自由に交換できる場」が保証され、その場を利用して交流が行われた結果としてでなければ、真理などというものは認識できないのだ、というものである。

 ハーバード的真理以外を真理から除外しておきながら、イスラムと対話するための土台というスキルを提供しちゃってる感じがしたのかも知れないですね。とてもためになる、いい授業でしたが。

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June 15, 2010

もうひとつの『アフリカの日々』

 例の1Q84で引用されたとかで、ちょっと注目集まっちゃうのかなと思われるイサク・ディネセンですが、まぁ『アフリカの日々』はどうせ映画にもなっちゃってるし。

 その『アフリカの日々』の中でも印象的な登場人物、料理人の少年カマンテが、すっかりお祖父ちゃんになってから語った聞き書きと、カマンテによるアフリカンアートな絵や、さまざまな写真をまとめた大判本。

 こんな本出てたの知らなかったんですが、マーケットプレイスで安く入手できました。
 ファンにはたまらない一冊ですが、よく日本語訳なんて出版されたなぁ、と。

 魂の深いところで生きている人の言葉。

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May 19, 2010

ウォーラーステイン

 水野和夫さんの『100年デフレ』で、さかんに引用、参照されていたので、ウォーラーステインってどんなんだろう?と思ってダンナに「知ってる?」と聞いてみると、「確か昔買ってあったのが……」と言って『大航海 No.21(1998.4)』 “特集:ウォーラーステイン以後”というのを出してきてくれた。

 もともとアフリカ研究をやっていた人で、アフリカで民主化や経済発展がいっこうに進まない理由を調べるうち、近代化において「進んでる」「遅れてる」があるわけではなく、アフリカは「低開発化」という形で、近代という「世界システム」の一部に取り込まれているのだとの考えに至ったらしい。システム内に取り込まれている限り、周辺が経済発展することはなく、近年の新興国の発展は、近代という世界システムが転換期を迎えているのを示している、ということになりますね。

 ウォーラーステインのリベラリズム批判に関しては、マルクス臭のする逆批判がいくつもあったりしたけど、それほど興味はひかれないかな。アメリカン・リベラリズムへの批判が実際のところ民主主義批判の射程を持ってることの方が面白い。
 あと、「哲学の神学からの解放」と「科学の哲学からの離婚」のことを、ウォーラーステイン自身がさらりと語ってたけど、やっぱこの辺は興味深い。認識に関するスコラ学の繊細な議論が、近代になるとまるで見えなくなっちゃうってのは、何なんだろう。

 余談的には、西欧近代がブレーキのブチ壊れた文明だという今村仁司と岸田秀の対談が載ってるんだけど、つまりは、人を殺していいと思ってる奴らの方が、人を殺すのは悪いことだというタブーを保ってる側より、常に暴力において勝るという話をしてて、ああ、不殺生というタブーを保ったヒーローが、ブレーキのブチ壊れた敵と戦うってのが、るろ剣やトライガンだったなぁ、などと感慨深く思った。

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May 09, 2010

けいざい!!

水野和夫『100年デフレ』。

経済史の視点というのが新鮮で、飽きずに読めてしまった。
現在のグローバル経済の進展が、農業の開始、封建制の崩壊に次ぐ人類史3回目の大転換だとの認識を、中世以来の利率や物価などなどのデータを用いて示す手際なんか、ほれぼれする。
20世紀型の「インフレになれば何もかも上手くいく」という考え方は、グローバル経済のもとでは通用しないな、と説得されてしまった。資産デフレ、利子率革命…思考の道具をいろいろ教えてもらえた感じ。

数式も出てくるんだけど、経済学って案外ザッパーだなと。ただ、為替がからんでくると一次元増えるみたいにややこしくなる。

経済成長が無限に続くと思ってるのかどうかだけ聞いてみたいけど、とてもまともな視点だと思った。

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May 02, 2010

ユイスマンスとオカルティズム

 高い本だったけど、以前『ユイスマンス伝』が出たとき、さんざん迷って結局買って面白かったので、今回もどうせ買うことになるだろうと、本屋でみて即決。

 フロイト-ラカン-クリステヴァ系列の精神分析の手法なので、議論自体はまるでピンと来ないし、そもそも信仰への嗅覚のない人なので、問題設定自体が疑似問題に見えてしまって、肩肘張って論証されてもそれが大したこととは思えないというのはあるんだが、神秘への嗅覚はないわけじゃないんで時々引っかかってくるのと、論証の過程で引いてくる草稿の比較や歴史的背景は、読んでるだけで面白い。ガイタとブーランの魔術戦争なんていう、一部方面で有名な逸話を、ユイスマンスは身近に目撃してたんだなぁ、とか。

19世紀が自然科学全盛のように見えていかにオカルティズムの世紀であったか、というのは、現代も変わりない。オカルティズムは歪められた宗教への憧憬なのだから。

著者はネオリベ批判の本を共同編集してたりして、その辺は共感できるところも多々ある。日本の大学はたぶんもうダメだけど、「成果」を数字にできない人文学的な真理や美や善を追求する方法って、大学以外に見いだすしかないんじゃないかな。天文や考古学の裾野が、生業を他に持つアマチュアのマニアに広がっているように、文学や哲学も権威を大学に囲い込むのをやめて、ちょっとは裾野を広げればいいと思う。で、すごく能力のある人はパリ大学でも何でも行けばいいのだし。もう、狭い日本であれもこれも専門教育を受けられるのが当然という時代は終わるのじゃないかな。教養と呼ばれていたものが根こぎにされた社会ってのも、さびしいものではあるけど、フランス文学やりたければフランスに行くのは、ある意味当然なわけで。留学奨学金がもっと増えなきゃ、それを言うのも酷か。

この時代にこんな(何の役にも立たない)本を出版すること自体が挑戦である!!みたいな自負心ぷんぷんの本なんだけど、まんまと乗せられて買っちゃいましたね。初版500部くらいかなぁ。紙の本じゃなきゃダメなのかなぁ。ネットで2千円くらいでDLできれば助かるんだけどなぁ。

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October 10, 2008

ル・クレジオ 『メキシコの夢』


 J.M.G. Le Clezio Le Reve Mexicain -- ou la pansee interrompue, 1988の邦訳。新潮社、1991年。 これは大学院の受験勉強をしている時期に、どっかの書評で読んで目にとまって、その1年で読んだ本の中でベストワンだったのを覚えている。
 邦訳の腰巻きにはレヴィ=ストロースによる推薦文がある。

ル・クレジオは昔の記録家の証言を鮮やかに蘇らせるとともに、アメリカ大陸のインディオ文明全体とのつながりの中に、西欧人には信じられなかったメソアメリカのさまざまな事物を素晴らしいエクリチュールによって描いている。……

 ル・クレジオはたまたまこの一冊だけ読んだことがあったのだけど、読んだことのある作家がノーベル文学賞を取るのは、珍しい。
 一つには、近年では西欧、そして日本を含む先進国の作家は、それ以外の国々の作家とバランスをとるために、順番が回ってくるのが遅い。
 もう一つは単純に、私が現代作家の本をほとんど読まないからだ。思想家の著作は、存命中の人たちのも読むけれど、文学はよほど信頼できる知人からの口コミでない限り、ほとんど現代作家のものは読まない。歳月の摩耗に耐えたものだけでも読み切れないほどあるわけだし。

 スペインが征服する以前のメキシコ、メシーカ族を中心としたインディオの儀礼と思考を再現し、その血まみれの祭儀の意味を読み解き、征服者によって沈黙を強いられた文明の、中断された思考に耳を傾ける……というような内容だった記憶が。西欧の倫理観で裁くことの傲慢とか、残酷な神の神聖性とか、印象はいろいろ残っている。大学院で学ぶ前に読んだから、今読み返すと粗が見えるのかも知れないけれど、まぁ、村上春樹では知性のレベルが勝負にならないんじゃないかな。

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April 18, 2006

E.Gorey『不幸な子供』『うろんな客』

久しぶりに絵本を買ってみました。
エドワード・ゴーリーという人の大人向き絵本。オカルト系掲示板の不気味な絵スレッドに名前が出てて興味をひかれ、ジュンク堂で見つけました。

『不幸な子供』は、お金持ちの家に生まれた娘がどんどん不幸になって死んでしまうお話。軍人のお父さんはアフリカに出征して原住民の反乱で殺され、母親はそのせいでやつれて死に、弁護士に預けられた娘は寄宿学校に放り込まれ、そこでいじめられてとうとう我慢できずに脱走し、道ばたで倒れてる間に家族の写真が入ったロケットも盗まれ、ごろつきに売られ、地下室で造花作りの内職をさせられ、あげくにほとんど失明、やっとごろつきのもとから飛び出したとたん、実は生きていたお父さんが娘を捜して車を飛ばしていたところに飛び出して、車にひかれて死んでしまい、けれど車から降りてきたお父さんは、あまりに変わり果てている娘に気づかずにthe end。
救いがなさすぎて笑ってしまうという転倒した癒し系として受け取られているらしい。描き込まれたペン画は昏いながらも魅力的。
皮肉なエンディングには物語の法則も働いているのだが(父娘の“再会”)、父娘は互いに気づかぬまま物語は終わってしまう。そこがいかにも現代的なのか。現に人生は往々にしてこのようなものでありうる。自らの罪を理解するギリシァ悲劇の英雄とはかけ離れた、自らを理解せずにただ流されるだけの、ふがいない登場人物。
「六の宮の姫君」もそうなんだけど、こういう風に主体として生きられないふがいなさは、女や女の子の属性なのだが、『不幸な子供』では、実は父親も同様にふがいないものとして描かれている。

『うろんな客』は、ある日家に入り込んできたフシギな生き物(直立アリクイみたいな愛嬌のある造形)と、結局はそれを受け入れて十何年も生活し続ける家族のシュールなお話。
「胡乱(うろん)」という言葉も死語に近いが、「うさんくさい」というような意味。
うろんな客はホールに駆けていって壁に鼻をくっつけたままじっとしたり、日曜日ごとにふさぎ込んで居間のドアの前で床に横たわり通行妨害をしたり、気に入らないことがあるとタオルをぜんぶ隠したり…と、行動原理が意味不明。
意味不明だけど家族が何となく受け入れて共存してるという状況は、いうまでもなくカフカのオドラデク(「父の気がかり」にでてくる正体不明の物体?生物?)を思い出させる。
ゴーリーのこの絵本は、子供や認知症の人の世話をしている人には、心に響くものがあるらしい。理解不能の相手に対して、ゆるく乾いた笑いで寛容になる方向。他方、カフカから私が感じるのは、寛容になること自体がさらに不気味であるような、癒しがたく不安な亀裂かな。

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October 15, 2005

食べるな危険!!

 タイトルは「買ってはいけない」系かと勘違いしそうだが、こめられている皮肉は、むしろ「洗った猫を電子レンジで乾燥」系のバカらしい裁判への当てこすりで、原題はDon't Eat This Book――この本を食べないで下さい。
 映画のモーガン・スパーロック監督による、スーパーサイズ・ミーの裏話他。スパーロック自身は、芝刈り機が回ってる時には刃に指を突っ込まないとか、ヘアドライアーを使っている時には水に浸けないで下さいとか、そういうバカバカしい注意書きが必要になったバカらしい裁判沙汰には辟易している。一方で、多額の賠償が請求されたタバコ裁判に関しては別の見解。タバコが身体に悪いことは、「何となく」みんな知っていたので喫煙で肺ガンになったからと裁判を起こすのは「バカらしい裁判沙汰」の一つのように見られているが、実際に裁判の中で明らかになったのは、タバコ会社は消費者にタバコの危険性を十分に知らせていなかった、という事実だったという。
 同様に、ファスト・フードの害もまた、私たちには十分には知らされていないのだ。カロリーの半分が脂肪分だと意識している人は少ないだろうし、トランス脂肪酸の害を認識している人は、日本では特に少ないだろう。

 原料の生産から加工、小売店での問題など、ファスト・フードの危険性については、なんかを読んでいれば、特に新しい情報は少ない。アメリカの学校給食での、背筋の寒くなるような報告が目新しいくらい。

 「マック食べない方がいいんだろうけど、あると買っちゃうんだよねー」という人に、ぜひ試してもらいたいことが、この本には2つ書いてあった。
 一つめは、マックのハンバーガーやポテトを買ってきて、包装を開けて、風通しのいい場所に設置して経過を観察すること。実際にやった人がいるとのことなのだが、1995年もののチーズバーガーが、いまだに腐っていないらしい。さすがにレタスは分解するらしいが、パンは乾燥してもろくなるだけでカビもせず、パティにいたっては表面が乾くほかには、ほとんど変化がないとのこと。高温多湿の日本でも、同じ結果になるのか興味あるところ。一人暮らしで家族に迷惑のかからない勇者、ぜひ実験して! 少なくとも数週間では腐りもカビが生えもしないんだろうなぁと予想します。
 もう一つは、より穏やかな実験。バーガーのパティだけを取り出して、ソースもこそげ落として、パティだけを味わってみること。肉の味がしないのはもちろんのこと、ガムのようなというかゴムのようなというか、不思議な味がするらしい。

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October 05, 2005

ナルニア国物語

 『神曲』の地獄編・煉獄編・天国編を読み終わったあとに、キリスト教文学繋がりで『ナルニア国物語』7冊再読。

 ナルニアにおけるキリストの化身アスランが、全能すぎてちょっとなぁ~……と感じたのは、私がまだ積極的に無神論者であった頃の、遠い昔のお話。今読み返せば、アスランの存在が微塵も揺らがないのはごく当然のことと受け止められる。
 日本の作家には、こういう存在を書くことはなかなか難しいだろうな。天帝でもビッグソウルでも、「超越者」として設定したはずのものがシリーズが進むにつれて「抑圧者」「敵」になってしまうことが多い。そもそも「超越」に対する意識が稀薄なので、設定が破綻するのは仕方ないと思うけど。超越への服従って、近代的価値観からは肯定しにくいだろうし。でもそれを肯定できないってことは、真実も善も信じてないってことなんだよね。「この世において絶対的な真実や善を僭称すること」を否定してるつもりで、真実や善そのものの在処を否定して、せいぜいが真実や善の個人化・陳腐化に陥るのが通例かと。

 (「指輪物語」もそうだけど)ナルニア国物語は、謙虚さを学ぶ旅、自己犠牲による救済の物語。単なる知恵や勇気や友情(などの人間的価値)による「勝利の物語」ではないところが、ほんとのファンタジーのミソだと思う。勝利ではなく、救済。あるいは世界との和解。
 う~ん、ファンタジーって、本当にイイですね~(^v^)

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