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October 2008

October 10, 2008

ル・クレジオ 『メキシコの夢』


 J.M.G. Le Clezio Le Reve Mexicain -- ou la pansee interrompue, 1988の邦訳。新潮社、1991年。 これは大学院の受験勉強をしている時期に、どっかの書評で読んで目にとまって、その1年で読んだ本の中でベストワンだったのを覚えている。
 邦訳の腰巻きにはレヴィ=ストロースによる推薦文がある。

ル・クレジオは昔の記録家の証言を鮮やかに蘇らせるとともに、アメリカ大陸のインディオ文明全体とのつながりの中に、西欧人には信じられなかったメソアメリカのさまざまな事物を素晴らしいエクリチュールによって描いている。……

 ル・クレジオはたまたまこの一冊だけ読んだことがあったのだけど、読んだことのある作家がノーベル文学賞を取るのは、珍しい。
 一つには、近年では西欧、そして日本を含む先進国の作家は、それ以外の国々の作家とバランスをとるために、順番が回ってくるのが遅い。
 もう一つは単純に、私が現代作家の本をほとんど読まないからだ。思想家の著作は、存命中の人たちのも読むけれど、文学はよほど信頼できる知人からの口コミでない限り、ほとんど現代作家のものは読まない。歳月の摩耗に耐えたものだけでも読み切れないほどあるわけだし。

 スペインが征服する以前のメキシコ、メシーカ族を中心としたインディオの儀礼と思考を再現し、その血まみれの祭儀の意味を読み解き、征服者によって沈黙を強いられた文明の、中断された思考に耳を傾ける……というような内容だった記憶が。西欧の倫理観で裁くことの傲慢とか、残酷な神の神聖性とか、印象はいろいろ残っている。大学院で学ぶ前に読んだから、今読み返すと粗が見えるのかも知れないけれど、まぁ、村上春樹では知性のレベルが勝負にならないんじゃないかな。

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October 03, 2008

ムームーの長いお散歩 --ハンマーを持った少年のお話

 ムームーの本当の名前は「ムー」ですが、みんながこの子を「ムームー」と呼びます。

 ある日ムームーは散歩の途中、小さな入り口を見つけました。
 小さな建物のはじっこにあいた、小さな入り口です。
 入り口には扉がありません。
 (きっと素敵なことがあるに違いないわ!)とムームーは思いました。
 入り口の向こうには、地下へと降りる階段がありました。ムームーはその薄暗い階段を、わくわくしながら下りていきました。

 階段の下は、薄暗い小さな部屋でした。天井近くの小さな窓から、かすかな明かりが差し込んでいます。
 ムームーは目をこらして、部屋の中を見回しました。
 部屋のすみっこに一人の少年がいました。
 少年は膝を抱えて座り込み、ギョロッとした目でムームーを見上げていました。
 ムームーは少年にあいさつしました。
「あたしムームー。よろしく」
「……」
 少年は黙ったままでした。ムームーは続けます。
「本当はムーっていうんだけど、みんなムームーって呼ぶの」
「……」
 少年は何も言いません。ムームーはさらに続けます。
「あんたと友達になりに来たのよ」
「……」
 少年はまだ黙っています。
「ちょっと聞きたいんだけど、あんた、ここで何してるの?」
 すると少年は、ようやく口を開きました。
「……人を叩かないようにしてるんだ」
 少年の声が聞けたので、ムームーはうれしくなりました。
「それは素敵ね。人を叩かないって、あたし、いいと思うわ」
 それからちょっと首をかしげて、ムームーは少年にたずねました。
「人を叩かないのはいいけど、あんたはここで座ってなきゃいけないの? ここが好き?」
「特別好きじゃないさ。でも、ここにいなきゃダメなんだ」
「なぜ?」
「ぼくにはハンマーしかないからだよ」
 少年は右手に握ったハンマーを見せました。
「ふぅん」
 ムームーはちょっと足を交差させ、両手を頭の後ろで組みました。
「ハンマーしかないと、どうなるの?」
 少年は悲しそうにムームーを見上げました。
「ぼくにはハンマーしかないから、見えるもの全部がクギみたいに思えてきちゃうんだ」
 少年の顔は本当に悲しそうでした。見ているムームーも悲しくなってくるほどでした。
「あら、まぁ……そうなの?」
「そうなんだ。朝食のトーストもクギみたいに思えて叩きつぶしちゃったし、ミルクティーのカップもクギに思えたからたたき割っちゃった。もちろん、ゆで卵も」
「あら、まぁ……それで、怒られなかった?」
「怒ってる母さんがクギみたいに思えてきたんだ。だから慌ててうちを飛び出して来たんだよ」
「そう。大変だったね」
「うん。大変さ。……兄さんにはピッケルがあるのに、ぼくにはハンマーしかないからね」
「へぇ……まぁ、ピッケルって、いいよね」
「ピッケルはいいよ。ピッケルがあるから、兄さんは山登りが出来るんだ」
「そっか、ピッケルなら、山登りできるよね」
「うん」
 ムームーは少年のとなりに座ってみようかな、と思いました。
 けれどムームーが一歩、歩き出そうとすると、少年が大きな声で叫びました。
「だめだ! こっちに来ちゃだめだよ! ぼくにはハンマーしかないから、きみのこともクギだと思っちゃうじゃないか。それ以上こっちに来ちゃいけないよ」
「ああ、うん、行かないよ。……でもあんた、あたしのことクギみたいだと思う?」
「わかんないよ。暗くてあんまりよく見えないし。でもよく見たらきっとクギだと思っちゃうさ」
「そうなんだ」
 少年の手は、しっかりとハンマーを握りしめています。
 ムームーはあらためて、両手を頭の後ろで組みました。何か考え事をしたり、深く思ったりするとき、ムームーはいつもそうするのです。
 すると、ある考えがムームーの心に浮かんできました。ムームーはにっこり笑って少年に言いました。
「ねぇ、あたし、素敵なこと思いついちゃった」
「素敵なこと?」
「うん。きっと素敵だと思う」
「どんなこと?」
「あのね、こんなのどう? まず、あんたはハンマーを床に置いて、握ってる指をそーっと開いてみるの。それから立ち上がって、こっちに歩いてきて、あんたはあたしと握手するの。どう? 素敵じゃない?」
 少年はびっくりしてムームーを見つめていました。ムームーはにっこり笑って頷きました。
 少年は、ゆっくり、ハンマーを床に置きました。
 それからハンマーを握っている指を、そーっと、まずは親指、次に人さし指、中指……と開いていきました。
 少年はますますびっくりした顔で、何も握ってない自分の手を見ました。それからその手を目の高さまで上げたので、ムームーは片手を振って見せました。
 少年は静かに立ち上がり、からっぽになった手を前に突き出したまま、一歩、また一歩、ムームーの方へと歩いていきました。
 少年が手の届くところまで来ると、ムームーはしっかりその手を握って、二人は握手をしたのでした。
「ほらね? やっぱり素敵じゃない?」
「うん……すごいや。これで昼ご飯までにうちに帰れるよ。お腹ぺこぺこなんだ」
「朝ごはん食べそこねたんだもんね」
 少年は頷いて、ニコニコしていました。
 ふと、ムームーが思いついたように言いました。
「ねぇ、あのハンマーだけど」
「うん」
「持ってってもいいんじゃない?」
「そうかな……」
「だってほら、クギと板を探せば、木の上に秘密基地が作れるし」
「そうか! そうだよね! 秘密基地とか、犬小屋とか!」
 少年はハンマーを拾い、ベルトに挟みました。
 それから二人は一緒に階段を上って、小さな出口をくぐり、地上に出ました。
「うわぁ、まぶしいや」
 少年はそういって目を細めました。
「ありがとう、ムームー。ぼくはジャン。でも、もし君がそう呼びたければ、ジャンジャンでもいいよ」
「そうね……『ジャン』と『ジャンジャン』、どっちが素敵な呼び方か、今度あうときまでに考えとくわ」
「うん」
「じゃあね」
「じゃあ、また」
 二人はたがいに手をふって、別々の道へと歩いていきました。

 ムームーはまだ散歩の途中です。
 ムームーのお散歩は、いつもとても長いお散歩なのです。

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