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June 18, 2005

七人の妃 1

 薄墨の衣を纏い、足を引き摺るように、一人の老婆が王宮の階段を上っていく。ゆっくりとした足取りは、夜そのものが裳裾を曳くかのように、一つの意志と目的によって倦むことなく運ばれていく。天球の高みには欠けた月が掛かり、蒼く翳る尾を引いていた。
 柱廊に立つ夜警の兵士が物音に気付き、階段を覗き込むと、小暗い影が蠢いているのが見えた。夜警は影の本体を見極めようと目を凝らしたが、影自体が命を持って蠢いていることを知り、打ちのめされた。
「誰だっ」
 かすかな恐怖に駆られ、夜警は声を上げた。老婆は答えない。
「止まれ」
 影はゆらりと揺れて形を変え、襤褸布の隙間から顔のようなものが覗いた。
「誰だ」
 影はまた形を変え、一通の手紙を挟んだ奇妙な杖を突き出したかに見えたが、それは老婆の腕だった。老婆は再びゆっくりと階段を上ると、夜警の前で手紙をかざした。
 それは王からの招待状だった。いかなる時、いかなる場合でも、速やかにそして鄭重に、王の御前へと案内するようにと書かれていた。
 夜警の兵士は老婆を見つめ、威儀を正しながらもなお呟いた。
「あなたは、いったい……」
 顔を覆う皺の一つが割れ、枯れた囁きが吹き抜ける。
「……その問いは、御前自身に向けるがいいさ」
 それは異界の告げ言のようだった。兵士は前よりももっと打ちのめされ、頭を低く垂れて老婆に背を向けると、沈黙の重荷を負って王宮の奥へと老婆を導いた。
 賓客の来訪が告げられると、眠っていた王宮の奥へと慌ただしいざわめきが波のように伝わっていった。その辿り着く先には一枚の分厚い扉があり、老婆が前に立つと、扉は軋みを上げて開いた。
 豪奢な調度で飾られた偉大な王の寝室には、薬草の匂いが立ちこめていた。老婆は何も言わず、寝台の枕元に用意された席に腰を下ろした。王は片手を上げて、医師と従者と女官たちを下がらせた。
 部屋は王の偉大さにふさわしい広さだったが、王も、老婆も、霞む両の目でその涯てを見ることはもはや叶わなかった。王は耳を澄まし、人々の気配が去ったことを確かめると、静かに口を開いた。
「……余には七人の妃がいる」
 老婆は揺れるように頷いた。
「存じておりますとも」
「……だが、それだけだ。他に何もない。何もかも得たが、何一つ無い」
 老婆の唇から、かすかな笑いが漏れた。
「誰も信じますまい」
「それが問題なのだ。広大な領地を統べ、不可能と言われていた偉業を次々に為し遂げた偉大なる王が、余には何一つ無い、と言っても、信じる者はいない」
 王は苦しげに頭をもたげ、老婆を見上げた。
「……貴女は?」
 老婆は静かに応えた。
「私が信じても、陛下御自身が信じられずにいれば、同じこと」
 王の顔に畏れがよぎった。
「余に信じろと言うのか? この不安が単なる不安ではなく、余の真実だと?」
「陛下に強いることなど、この世の誰に出来ましょう? それよりも……陛下」
 老婆はそれまでとは違う、打ち解けた声音で言葉を継いだ。
「お妃方のことをお聞かせ下さい。陛下をもっともよく愛し、崇拝する方々のことを」
「あれらは全員、余が逝けば余に殉じると言っておる……本心からの言葉だろう」
 王は寝台に掛かる天蓋を見やり、長い沈黙に浸った。七人の妃を思うことは、王の人生、為し遂げた事どもを思い返すことだった。
 王は自分がまだ若く、そして世界がずっと広かった頃へと思いをやった。

 一人目の妃には貴女も会ったことがあろう。長年敵対していた隣国の姫だ。北方の蛮族に国を攻め滅ぼされ、肉親を殺された姫を、余はこの宮殿に招いてもてなした。だが長く敵対した国にあって、彼女の心が安らぐことはなかった。彼女のたった一つの望みは蛮族を追い払い、祖国を取り返すこと。今思えば、余は子供じみた自尊心だけを頼りに兵を率いて、誰もが無謀と呼んだその戦いに赴いたが、知力と、勇気と、強運とで、わずか半年で蛮族を追い払った。凱旋した余の前に姫は跪き、生涯を余に捧げると誓った。北方の蛮族の強さと恐ろしさを最もよく知る彼女は、それを追放した余の力を誰よりもよく理解し、余の偉大さの前に跪いたのだ。
 二人目は海の向こうから来た。余は余自身の若さに急き立てられるように、大海へと乗り出し、遙か南へ航路を開拓した。溢れるほど豊かな果物と香料、味わったことのないたくさんの作物に満ちた大地では、天鵞絨の肌をした女たちが余を歓待した。その中の一人を連れ帰ると、彼女は我が航海の困難を知り、南海の航路を征服した余の勇気と大胆さを心底から絶賛し、偉大な航海者である余を崇拝した。
 三人目は遙かな東方で恋に落ちた。歳と共に益々気力充実していった余は、十年に渡って戦いを求め馳せ巡った。言葉も、神の名も違う国々が、次々に余の支配に下った。髪や目や、肌の色も違う東方の国で、一番の美女と名高い踊子が余を出迎えた。彼女は、世界の涯てから遙々やって来た余を、彼らの奉ずる神々の一人とでも思ったらしい。どうか共に連れて行って欲しいと懇願され、余はその美しい女を戦利品の一つとしてこの国に連れ帰ることにした。一年をかけての帰国の旅路で、彼女は次々に現れる見たこともない風景、人々、歌と舞踊、あらゆる見知らぬ文化に触れて、余の版図の広大さを身をもって体験した。そうして彼女は、共に戦った故山の将軍たちを別にすれば、我が帝国の偉大さを最もよく知り、最も熱烈に賛美する者となった。余はその女を妃として娶った。
 輝くほどの若さは去っていったが、余の身中に漲る意志の力は衰えてはいなかった。余は都に腰を落ち着け、五年続けて荒れ狂う洪水で民を襲ったあの大河に新たな戦いを挑んだ。暴れ回る流れを変え、堤防を築き、大河をついに手懐けることが出来るとは、余の他には誰一人信じてはいなかった。だが余はそれを為し遂げた。堤防は持ちこたえ、河は溢れることがなかった。傲岸な河の神に捧げるべく最後の人身御供と定められていた娘を、余は解き放ってやった。それが四人目の妃となった。
 人生の半ばを過ぎ、余はこの都と宮殿の改修に着手した。都中の通りという通り、屋根という屋根は余の指揮のもと美しく敷き替えられ、葺き替えられ、宮殿は雪のごとき大理石で化粧直しされた。余は宮殿の柱像を、都でも最も古き血筋に連なる姫君の姿を写して建て直させた。姫君は美しく生まれ変わった都を巡り、宮殿を巡り、そして自らの姿を写した柱像を見上げ、余の足下に接吻した。この都が建設された、その始まりの時に居合わせた彼女の先祖にも劣らぬ名誉を授けられたことに感謝し、彼女は余に嫁いだ。長い時を経て残るのが何であるかを、最もよく知る一族の一人として、彼女は千年先までも響き続けるであろうこの都と宮殿の威光の、最善の理解者となった。
 しかし余はそこで立ち止まることは出来なかった。都の改修のために切り開かれた森が、広大な荒れ地になろうとしているのに気付いたからだ。余は木々を植えることを始めた。民が望む果実のなる木、精油や香料をもたらす樹々、そして焚き付けの枝を多くもたらす木々を植えた。昏き獣たちの森ではなく、豊かな実りの森を作るべく、余は手ずから木々を植え、育てた。やがて丈の低い樹々の間に明るい陽が差し込み、柔らかな靄の中に幾本もの光の帯が――妖精宮の柱のように――顕れるようになった。その隙間を子供らの笑い声が谺し、余は一人の娘に出会った。森を愛し、森を楽しみ尽くし、森の広がりと共に成長してきた猟師の娘だ。彼女は森の樹の一本一本と兄弟姉妹の関係を結んでおり、下生えの草々のあらゆる効能と利用法を知っていた。彼女はまさに、余が再生した森の守護者と呼ぶに相応しかった。娘は余の身分を知ると、初めはひどく畏れたが、やがて、この森への愛情を共に分け合うことが出来るのは、余と彼女、この世に二人しかいないと気付いた。
 歳月は余の上にも平等に降り積もり、余は残りの人生で為すべきことは何なのかと自らに問うた。余の心に浮かんだのは、伝説の歌だった。昏き森の彼方、岩なす谷を越え、世界の屋根を支えるというあの神々の山脈のどこかに眠る、遙かなるいにしえの王の伝説だ。人ならぬ者達と親交を結び、この世の秘密を余さず知っていたという、百の名の王――しかし死すべき人の子らには、百の名のうち九十九までしか明かされることがなかったという、あの王の伝説だ。王の百番目の名は、彼が知った世界の秘密そのものであるとも言い伝えられてきた。余は杖に縋り、輿に乗りさえして、神々の山脈、そのどこかに眠るという王の墓所を目指した。人を拒む空の高みへと登るにつれ、強健な供の若者らは次々に幻影に捕らえられ、倒れていった。余は一人、死の影に寄り添われながら幾日も彷徨った。そして辿り着いたのだ。信じようと信じまいと、そこには伝説の王の墓所があり、墓所を守る一族の村があった。一人の女が余を待っていた。女は余に水と粥を与え、温め、眠らせ、やがて余の身体が回復すると、王の墓所へと案内した。崩れかけた墓所には一枚の石版があり、歳月に摩耗してほとんど薄れてしまったとはいえ、そこには確かに、百の名の王の百番目の名が書かれていた。それは見知らぬ文字、とうの昔に滅び去った言葉で書かれていた。余は女に、それが読めるのか、意味を知っているかと問うた。女はただ微笑むだけだった。彼女は耳が聞こえず、口がきけなかったのだ。しかも彼女は、千年の長きにわたり墓所を守ってきた一族の、最後の一人だった。そうして世界の秘密は慈悲深く守られ、王の百番目の名は永遠に失われた。余は古びた石版と、墓守の女を連れて山を下りた。……(その2へつづく

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