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April 2005

April 27, 2005

やがて芽が出て

CIMG0739
 何かのおまけで付いてきたミニトマトの種が、ずーっと冷蔵庫に入れっぱなしになっていたので、思い立って蒔いてみた。1年か2年か、冷蔵庫の中で眠っていた種なので、芽が出ればもうけもの、というくらいのつもりだったのだが、しっかりと6こ全部が発芽してくれた。まさか全部芽を出すとは思わなかったので、苗用とは言え植木鉢が小さすぎる。間引かなきゃならないと思うと申し訳ない気持ち。
 これで窓辺には、バジル、ローズマリー、イタリアンパセリ、ペニーロイヤルミント、そしてミニトマトが並んで、ずいぶん春らしくなった。イタリアンパセリは植木鉢がなかったので洗面器の底にドリルで穴を10個くらい開けて植えてみた。今のところ、どれもすくすく育ってるけど、今後も玄米のとぎ汁だけで満足してもらえるだろうか。
 緑が増えると、どこからともなくちっちゃな羽虫が入り込んでくる。殺虫剤はないので、掃除用に作り置きしてあるクエン酸水のスプレーで狙いを定め、撃ち落とす。飛べなくなっているところを捕まえてポイするのだが、撃ち落としてもちゃんと見つけてポイしないと、羽が乾けばまた復活して飛び始める。
 それと、うちには害獣が一匹いるのだ。我が物顔でソファの背もたれに乗って匂いを嗅ぐところまではするが、今のところ被害はない。散歩に行くと、(文字通り)しょっちゅう道草を食うのだが、ハンナにはハンナで好みの草があるらしい。ハーブなんか食べたら、ハーブ豚になっちゃう。

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April 23, 2005

ベネディクト16世

 新らしいローマ教皇の正式な就任も明日に迫りましたが、BBCの記事から、教皇に決まってから最初のミサで行われた説教や、過去の発言集など、主な記事をざっと読んでみました。期待大です。

 マスコミでは教義の面で保守的だと騒がれていますが、どんな神学的論点があるのかと思って読んでみると、批判的にやり玉に挙がるのは、何のこたぁない世俗の事柄に対する意見。
 中絶や安楽死に反対 → 殺人をバチカンが認めるわけにはいかないもんねぇ。個別のケースに対する寛容が問題
 受胎調整にも反対 → HIVが問題となっているアフリカでは、節制が出来ないならコンドームを使った方がいい、という現実的な指導をしている聖職者が多いので、それを咎めるのでなければ宗教指導者としての適正に問題はないと思う
 神学的問題に関わるのは、
 司祭の妻帯に反対 → 妻子持ちの司祭から聖体拝領するシスターという図は、私だって抵抗あるぞ
 女性の祭司職叙階に反対 → 司祭と修道者では別々の召命なので、性別で差別すべきではないとは思う。が、単なる平等の原理を教会に持ち込もうとするのでは意味がない。人は神の前でしか平等ではない。教会はヒエラルキーの秩序を示すことに力を注ぐべきなので、たかだか百数十年のフェミニズムでバチカンを変えられるとは思わない。あと数百年頑張ろう
 同性愛の婚姻に反対 → 感情を持つことは罪ではないと言っている。世俗においては同性婚を認めたっていいじゃないかと思うが、バチカンでは婚姻の秘蹟に関わることなので、本来は離婚・再婚にこそ反対すべき、と言いたいくらい
 その他、批判的にあげつらわれるのは相対主義への批判なのだが、これはどう見たって新教皇の言ってることはまともだ。

相対主義は……今日のスタンダードに受け入れられる唯一の態度のように見える。私たちは何一つ決定的とみなさず、各人のエゴと欲望を最高の価値とする相対主義の独裁に向かおうとしている。   ( Pope Benedict XVI in his own wordsより拙訳)
 相対主義が「主義」として働くとき、それはあらゆる判断の放棄となり、それに伴って実際上の唯一の価値基準は功利主義しかなくなり、功利的判断の埒外に置かれるすべては個人的・主観的な趣味嗜好へと切り下げられる。たえざる自己の相対化は宗教の教えの核心だが、相対「主義」をもって全体を俯瞰するたくらみは、相対主義の絶対化であって批判されてしかるべきだろう。深く考えることの苦手な人間のほとんどは、頭がかなり良くてもこの罠に陥る。自己のたえざる相対化が導く先は対話だが、相対「主義」の行き着く先は対話の放棄、暴力の絶対化だ。

 新教皇サマは、かなり伝統的な方のように見えるし、ことによるととても霊性の高い方かもしれない。ラテンアメリカやアフリカ・アジアの貧困にどう取り組むかが注目。第2バチカン公会議の精神を一層実現させようと仰っているが、その精神って、現世で十分に苦難を負っている人々に、希望が届くようにというものではないかなぁという気がしてきた(典礼を「分かりやすく」することなど)。現世で十分に富んでいる者たちの教会が、あんまり脳天気に「私たちって神様に愛されて幸せー」って言ってるのは、やっぱり鼻持ちならない。先進国で食うに困らずにいる私たちは、かなり具体的に罪人なのだ。金持ちが父の御国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいはずなのだし。

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April 16, 2005

『音の神秘』

 インド音楽の名手でもあったイスラム神秘主義の実践者ハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)による、主に欧米人向けに語られた講演・講義をまとめた『音の神秘』

 神秘主義への関心半分、小説のネタとしての興味半分で読み始めたが、意外にも神秘主義の教えが結構つっこんで語られていた。

なぜこの世は神秘家によって幻とよばれるのか。なぜなら、自らの秘密を内につつみこむのが「現れ」の本質であり、それは硬化した形で現れるため、細やかさ、美しさ、神秘性などの特性は隠されてしまうのです。 p.83
…彼らは肉体とよばれる小さな物質的領域に自分自身を限定して、実際よりもうんと自分自身を小さくしているのです。実は、人間は両面を持つ一個人なのです。ちょうど両端のある一本の線のように。それは両端を見ると二つですが、線を見るなら一つです。線の片端は有限で、片端は無限。一方の端は人間で、もう一方の端は神です。人は神の側の端を忘れ、自覚している片端のことしか分かりません。 p.98
「これは私の机、これは私の椅子だ。『私の』と言えるものはみな私に属しているが、本当は私自身ではない」ということに気づきはじめます。それからまた、「私は私自身をこの体と同一視する。が、これはまさに『私の机』とか『私の椅子』と同じような『私の体』なのだ。…(略)…この体はただの道具にすぎない」と言うようにもなります。…(略)…それでは、他に何があるのでしょう。自分と同一視すべきものとは、私の想像力でしょうか。しかし人はそれさえ、「私の想像力」「私の思考」「私の感情」とよぶのです。それゆえに思考、感情、想像力でさえ、本当の「私」ではないのです。…(略)…完全な自我は、偽りの自我の消滅によって達成されるということ… pp.335-6
 他には、声に出された言葉や、思考がこの世に波紋を残し、それ自体が大地に蒔かれた種のようにいつまでも残って育ち、実を結ぶという考え方が語られている。言葉や思考すらも因果の種となるがゆえに、賢者の観想は外的活動より一層、世を平安にする、ということらしい。これを俗化すると「ありがとう教」みたいに「ありがとう」を何万回言うと願いが叶う!とかってなっちゃうし、そうじゃなくてもニューエイジ・自己啓発系の影響のもとで世にはびこるポジティブ・シンキングになっていく。破壊的・暴力的な言葉や思考を抱くべきではないという教えの表層だけが流用され、自我の死に至る神秘主義の本質は覆い隠される。分かりやすい語り口というのも、善し悪しだなぁと思うのは、顕現と存在の成り立ちを語るときに「波動」という言葉が何度も使われることに関しても感じた。ニューエイジ系が飛び付きそうなボキャブラリーだなぁ、って。ニューエイジの何が悪いって、結局は科学主義・物質主義のくせに、精神的な言葉をもてあそぶから嫌い。物質的な「もの」に飽き足らなくなって、今度は精神的な「もの」を求めてるだけなんだもん。あと、無意識は意識より下位のヒエラルキーであるのに、上位のヒエラルキーに属する霊的・精神的領域とごっちゃにするしぃ。
 神秘主義繋がりでマイスター・エックハルトをパラパラめくり返してみると、こっちはまたずいぶんと難解な語り口。でも、当然ながら、違うことを言っているわけではない。

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April 15, 2005

グリルかわべ

 犬の散歩の帰りに花屋の店先にローズマリーの苗を見つけ、そういえばいっぺん育てたけど、東京に帰っている間に枯らしちゃったなぁと思って、買って帰った。現在も元気に育っているのはバジルのみで、ローズマリーの他にシシトウも、しばらくは収穫を楽しんだものの、結局枯らしてしまった。枯らした鉢はそのまま窓に放置されていて、冬の間はそんなもんだろうと思っていたが、春の風景ではない。心を入れ替えて、シシトウを植えてあった鉢をひっくり返し、枯れた枝をぽきぽき折って鉢の底に敷き、固まった土を入れ直して、ローズマリーの苗を植えた。鉢の下に敷いていた水受けの皿を洗ってきれいにし、他にもいくつか土が入ったまま放置してあった小型の鉢とプランターを洗って片付けると、窓辺に春がやってきた。
 疲れてお腹が減ったので、食べに行くことに。御幸町蛸薬師下がるの「グリルかわべ」。名前はあちこちで見かける有名な洋食屋さん。まだ5時半過ぎだったので他に客はなく、小さな店内のテーブルでシェフが新聞を読んでいた。
 注文したのは海老フライとポークのパン粉焼。ゴロンと大きなレモンの輪切りが添えられた海老フライには、揚げたパセリが乗っていて、しっかりしたタルタルソースが別皿でついてくる。付け合わせの人参グラッセは品の良い拍子木切り、ポテトフライは皮付きの三日月型。ポークは分厚く、たっぷりめのソースに埋もれていた。パンとビールを頼んで、腹八分目という満足感。普通のロールパン2つが出てきただけだけど、ちゃんと温めてあったのが嬉しい。
 このくらいしっかりした味となると、値段の方もそれなりにするが、オムライスあたりで済ませればリーズナブルかも。

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April 13, 2005

『ジョヴァンニ』

 例によってCOCON烏丸の京都シネマで、『ジョヴァンニ』を見てきました。
 メディチ家の血筋でありながら、華やかな宮廷を遠く離れ武将として戦場を駆け回ったジョヴァンニ・ディ・メディチの最後の一週間。鉄砲、大砲といった火器が一騎打ちの伝統を崩壊させた16世紀前半の戦場。ルター派のゲルマン軍が侵攻する北イタリアで、教皇軍の前衛として戦うジョヴァンニの黒い部隊。いとこであるマントヴァ候の背反行為により窮地に陥り、フェラーラ公が敵軍に提供した大砲によってジョヴァンニは致命傷を負う。負傷した足を切断するその間際、彼は体を押さえつける部下達を下がらせ、自ら片手に燭台を掲げて手術に臨む。だが片足切断の甲斐もなく、高熱が続く中、彼は兵士として死ぬために野戦用のベッドに移って静かに息を引き取る。

 全編美しい映像。荒涼とした雪景色のなか進軍していく黒い甲冑の列。戦いという身体性のただ中で、匂い立つような精神性が印象に残る。マントヴァ候、フェラーラ公はそれぞれの理由でジョヴァンニを裏切り、あるいは疎んじ、命がけで守ろうとしている教皇自身にすら、彼は報いられることがない。それでも、彼を突き動かす魂の力は、単なる生存以上のものを求めてやまない。ジョヴァンニは死の数日前の進軍の途中、半ば狂乱している村の神父に人殺しと罵られる。死の床で、おそらく終油の秘蹟を授けに来たのだろう司祭に、「もし、兵士でなく司祭になっていたら……」という内容のセリフを呟くシーンがあるのだが、彼の戦争は、彼の信仰と命の表現だったことは疑い得ない。
 致命傷を負うことになる戦場で両軍が対峙したとき、ゲルマン軍の将軍はジョヴァンニに敬意を表す仕草をする。ジョヴァンニをじっと見詰める将軍の表情は、寂しさの入り交じった親愛すら感じさせる。結局、誰よりもジョヴァンニを理解していたのは、あの将軍なのか?
 映画の冒頭とラスト、戦争の近代化に対する批判めいたナレーションが入るのはやや蛇足という感じがした。

 それに何しろまぁ、ジョヴァンニがいい男。帰るべき安らぎの場所である家庭を守る妻を愛しながら、マントヴァの貴婦人とも激しい恋を燃やすなんて、信仰深い男にしてはいい気なもんだけど、あれだけのいい男なら、まぁ、それも許せる。
 途中寝てる人も結構いたみたい。描かれている精神性に興味がなければ、淡々とした展開の退屈な映画だったのかもしれない。戦争という行為にまつわるやりきれない無意味さと、行為の不可避性による崇高さ――『戦う操縦士』に通じる、底流に不思議な静寂が流れ続ける、戦いの映画。

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April 11, 2005

キャベツ!キャベツ!キャベツ!

 宅配で旬の野菜が届くようになったのはいいのですが、ちょっと前は毎週、葉付き大根が、そして今は、キャベツが丸々1個毎週届き、2人世帯には少々工夫が必要な恵みの季節です。
 そんなわけで今晩はキャベツ尽くしの晩ご飯にしてみました。
   ・キャベツとひえのスープ
   ・キャベツの豆腐ソースグラタン
   ・キャベツのショウガ風味御飯
 参考にしたのは『菜菜ごはん』
 レシピではキャベツと長芋のポタージュでしたが、長芋がなかったのでひえでとろみとコクをつけてみました。ニンニク、玉葱とキャベツを炒めて、水とひえを加えて二十分ほど煮てからブレンダーでなめらかになるまで混ぜて出来上がり。美味しくできました。
 豆腐ソースは、絹ごし一丁に白みそ大さじ4、オリーブオイル大さじ2、レモン汁小さじ1、塩少々を混ぜてホワイトソースの代わりに。キャベツとキノコを炒めたものにかけてこんがり焼きました。白みそがないので麦ミソで代用したら、ややミソの香りが勝ってしまいましたが、あとを引く美味しさです。
 ショウガの千切りを加えて塩醤油で味付けてごはんを炊いて、ホントはお揚げの細切りも入れて炊くんですけど、タイマーかけて買い物に出たら、お揚げを買って帰ってきたときにはすでに炊き始めてしまっていたので、フライパンで乾煎りして、塩もみしたキャベツと一緒に、炊きあがりに混ぜました。玄米ごはんで作ったのですが、これが香りがよくて美味しい!香り米かと思うくらい。
 スパークリングワインはCremant de limoux, Chatear de villelongue。
 デザートにはクイーンアリスのスプリングロールケーキ。甘味がかなり抑えてあって、マクロビな僕らにも美味しかったです。
 ……でもまだ、キャベツが1個半残ってるよ。

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降る花日和 筍尽くし

 予報では雨が心配されましたが、なんとか夜までは持ちこたえて、暖かな降る花日和の一日でした。
 四条から五条にかけての鴨川、高瀬川の染井吉野も、今日の暖かな湿った風に吹かれて、しきりに散っていました。川面に流れる白い花びらは絶えることがなく、どれだけ上流の桜が混じっていることやら。
 京都の桜は染井吉野ばかりでなく、枝垂れ桜、紅しだれ、里桜など、まだまだこれから見頃を迎える木も多いので楽しみは続きます。特に枝垂れ桜は風情があって大好きなのだけど、東京ではそれ程多くは見かけません。京都にはたくさん植えられているので、ありがたく楽しませていただいています。

 夕刻、長岡天神の錦水亭へ。長岡天神の池沿い、染井吉野の並木道を歩いて池を渡り、本宮まで石段を登ってお参りしてから、いざ今年も筍会席を賞味。去年は桂の筍亭に行ったので、こちら錦水亭は初めてです。
 木の芽和え、のこ造り、田楽、若竹すまし汁、じきたけ(煮物)、焼竹、むしたけ、てんぷら、酢の物、のこめし、そして果物というコース。もう、お腹一杯筍を堪能。どれも美味しく頂戴しました。特に、筍の根本の方を豪快に輪切りにしてお出汁で煮た「じきたけ(登録商標)」は、けっこうなボリュームにもかかわらず、絶妙のほのかな甘味でパクパクいけちゃう美味しさ。筍の皮に包んで出てきた焼竹も、お醤油の焦げた香ばしいかおりと歯ごたえで、とても印象的でした。ただ、仲居さんがフル回転で次々にお料理を運んでくれるのですが、前半の配膳はやや早すぎ。お盆の上に置く配置も、ややぞんざい。それぞれのお皿がきれいに盛り付けてあるだけに、ちょっと残念でした。仲居さん、オーバーワーク気味なのかしらという感じです。
 お料理は錦水亭の方が私には分かりやすく、「また来たい!」と思わされる印象的なものでした。仲居さんの質やサービス全般、静かなロケーションという点では、筍亭の方が上でしょうか。錦水亭のお料理を筍亭のサービスで食したいところですが、そうも上手くはいかないようで。花の盛りも人の世も、ほんに儘ならぬものでございます。

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April 05, 2005

gautama

 インド料理のゴータマに行ってきました。西洞院四条下がるにある、わりと最近できたお店のようです。
 北インドの味付けで、アジャンタとどっちがいいか迷うくらい美味しかったです。大好きなチキンサグワラは、アジャンタよりやや口当たりが荒いながら、なぜかより上品な印象。味付け全般が上品な感じです。量も値段もアジャンタに引けを取らず、ナンの種類も豊富。米料理もおいてます。今なら夜でも混んでないので、ふらりと寄って入れますよ(店の前に置いてあるチラシを見せれば10%offになります)。オーダーは日本語でももちろん通じますが、英語の方がスムーズかも。店内に飾ってある壁掛けの曼荼羅は、色調がシックですごくきれい。メニューに書いてあるところによれば、オーナーのゴータムさんはマハラジャの家系。親族はブリュッセルで宝石商やってたり。
 定休日火曜と表記してるページもありますが、火曜のランチのみ休み。火曜の夜は普通にオープンしています。アジャンタはお客さんが増えてつぶれる心配はなさそうなので、しばらくはゴータマさんをひいきにしようかなと思います。

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April 02, 2005

『幻想の東洋』

 エゾテリズム繋がりで購入した『幻想の東洋』
 読み始めたときに「普通の現代のアカデミシャンの書いたエゾテリズム系の本」と書きましたが、著者の彌永信美さんは一応、「アカデミックな機関にはまったく属していない」文筆家のようです。でも、書かれたもののスタイルは完全にアカデミックライティングです(多少文筆家らしく文章がひねってあったり劇的な展開になってたりはしますから、普通のアカデミシャンよりはずっと文章が日本語になってますが)。

 で、前回書いた通り、やはりゲノンのあとに読むのは辛い。多様な文明の根底に唯一の真理を前提とする思考を「真理の普遍主義」とか「真理の一元論」とか呼ぶことについて、真理であるからには当然唯一のものであるはずだと言いながらも、普遍「主義」、一元論、と呼んでしまうのは、相対「主義」からの視点であって、ヒエラルキーの混乱を批判する伝統的視点とはかけ離れている。
 キリスト教の「普遍主義」がほとほとお嫌いなんだなというのはよ~く分かるけれど、本当は何が嫌いなのか、見分けているのか疑わしい。70年安保世代とのことで、その辺のジェネレーションギャップも感じる。ゲノンやA.K.Cには知的能力のギャップは感じてもジェネレーションギャップなんてものとは無縁なのに。
 普遍主義は顕現のレベル、本来多様性に開かれているはずのレベルでの画一化をめざすものであって、当然ながら有史以降の古代末期、12世紀半ば以降の中世末期、ルネサンス、近・現代に共通の病理で、一般の歴史学が取り上げないような錬金術やら神秘思想やらの精神史の中に、ナチズムに至る暴力性の萌芽を見つけられるのは当たり前なんだと思う。だからその当たり前のことを、本文・後注わせて600ページ近い大作でくどくどと書かれても、論の展開自体に妙味はなく、むしろ常に、ちょっと違うんだよな~と思いながら読まなければならなかった。真理の概念そのものの問題性とみなして、知を感覚的現実のみに縮小してしまうことの問題とは考えていない。フランスで東洋思想を学んだという経歴からして、著者がゲノンを読んでないとは思えないけど。まぁ、ジョン・ディーやピコ・デッラ・ミランドラが登場してくるのは、それだけで面白いですが。

 でもすごいいい物語が見つかったから、600ページくらい許してもいいやと思う。

イタリアのクロトーンに生まれたポルミオーンは、ある戦いで双児神ディオスクーロイの一人によって傷つけられ、神託によってスパルテーに赴き、そこで最初に彼を食事に招くものによって傷を癒されるであろうと告げられた。その教えに従ってスパルテーに行くと、彼を最初に食事に招いたのは、彼を傷つけたディオスクーロスその人だった。傷を癒されてその家を出たとたん、彼はそれがクロトーンの我が家だったことに気づいたという。 p.58
 ラビ・エイシクの物語に似た、本物の物語のエッセンス。

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花便り

CIMG0691CIMG0689 まだ肌寒い3/30、突然春が来たようでした。気付けばコブシが満開、一番早咲きの枝垂れ桜も、数輪ほころんで。雪柳も日に日に咲きひろがって……河原には羽虫がわさんか。
 今日は高瀬川のソメイヨシノも、少しだけほころび始めていました。ライトアップはあちこちですでに始まってますが、夜桜の見頃は来週末からでしょうか。
 冬の間はコタツからほとんど出てこなかったハンナも、春を感じてかすっかり元気になり、夜中に突然ハイテンションになって部屋中駆け回ったりしています……迷惑。

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マシニスト、Sala Suite Caffe Rucola

 更新をさぼりはじめると、些細なことを書くのが億劫になってきます。

『マシニスト』
 例によって水曜日に京都シネマで見てきました。オチの方向性が早々に分かってしまうので、ストーリーはどうということはありません。主人公が不眠症のせいとはいえプッツンで、まるで感情移入できない。ただ、主人公が勤務する工場での事故が、かなりの恐怖感を与えてくれます。工場の機械って恐ろしい……非人間的であることの剥き出しの身体への暴力性。工場の事故で片腕を失った人が、会社からの保証金で優雅な暮らしをしている描写がありましたが、ネオリベ化の進んだ現在、こんな幸運な待遇を受けられる人は例外的なのでは……

Sala Suite Caffe Rucola
 今日は京都駅の伊勢丹に行ってから、三条のブックオフに行って、漫画専門の喜久屋書店に行って……なんてして疲れたので、晩ご飯は池坊大学の地下にあるルコーラというイタリアンで外食。カフェにもバーにもダイニングにも使えるこじゃれた店ですが、価格設定はすごくお手頃。味付けもいい。火の入れ方は絶妙とは言えないけど……まぁ、お値段を考えたらそこまで要求できません。
 フロア係の男性が三人いたんだけど、三人とも似たような短髪で似たようなヒョロッと背の高い細身。3兄弟だったら面白いんだけど。もう1人フロアのお姉さんも、とても感じのよい美人でした。

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