新らしいローマ教皇の正式な就任も明日に迫りましたが、BBCの記事から、教皇に決まってから最初のミサで行われた説教や、過去の発言集など、主な記事をざっと読んでみました。期待大です。
マスコミでは教義の面で保守的だと騒がれていますが、どんな神学的論点があるのかと思って読んでみると、批判的にやり玉に挙がるのは、何のこたぁない世俗の事柄に対する意見。
中絶や安楽死に反対 → 殺人をバチカンが認めるわけにはいかないもんねぇ。個別のケースに対する寛容が問題
受胎調整にも反対 → HIVが問題となっているアフリカでは、節制が出来ないならコンドームを使った方がいい、という現実的な指導をしている聖職者が多いので、それを咎めるのでなければ宗教指導者としての適正に問題はないと思う
神学的問題に関わるのは、
司祭の妻帯に反対 → 妻子持ちの司祭から聖体拝領するシスターという図は、私だって抵抗あるぞ
女性の祭司職叙階に反対 → 司祭と修道者では別々の召命なので、性別で差別すべきではないとは思う。が、単なる平等の原理を教会に持ち込もうとするのでは意味がない。人は神の前でしか平等ではない。教会はヒエラルキーの秩序を示すことに力を注ぐべきなので、たかだか百数十年のフェミニズムでバチカンを変えられるとは思わない。あと数百年頑張ろう
同性愛の婚姻に反対 → 感情を持つことは罪ではないと言っている。世俗においては同性婚を認めたっていいじゃないかと思うが、バチカンでは婚姻の秘蹟に関わることなので、本来は離婚・再婚にこそ反対すべき、と言いたいくらい
その他、批判的にあげつらわれるのは相対主義への批判なのだが、これはどう見たって新教皇の言ってることはまともだ。
相対主義は……今日のスタンダードに受け入れられる唯一の態度のように見える。私たちは何一つ決定的とみなさず、各人のエゴと欲望を最高の価値とする相対主義の独裁に向かおうとしている。 ( Pope Benedict XVI in his own wordsより拙訳)
相対主義が「主義」として働くとき、それはあらゆる判断の放棄となり、それに伴って実際上の唯一の価値基準は功利主義しかなくなり、功利的判断の埒外に置かれるすべては個人的・主観的な趣味嗜好へと切り下げられる。たえざる自己の相対化は宗教の教えの核心だが、相対「主義」をもって全体を俯瞰するたくらみは、相対主義の絶対化であって批判されてしかるべきだろう。深く考えることの苦手な人間のほとんどは、頭がかなり良くてもこの罠に陥る。自己のたえざる相対化が導く先は対話だが、相対「主義」の行き着く先は対話の放棄、暴力の絶対化だ。
新教皇サマは、かなり伝統的な方のように見えるし、ことによるととても霊性の高い方かもしれない。ラテンアメリカやアフリカ・アジアの貧困にどう取り組むかが注目。第2バチカン公会議の精神を一層実現させようと仰っているが、その精神って、現世で十分に苦難を負っている人々に、希望が届くようにというものではないかなぁという気がしてきた(典礼を「分かりやすく」することなど)。現世で十分に富んでいる者たちの教会が、あんまり脳天気に「私たちって神様に愛されて幸せー」って言ってるのは、やっぱり鼻持ちならない。先進国で食うに困らずにいる私たちは、かなり具体的に罪人なのだ。金持ちが父の御国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいはずなのだし。
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