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March 2005

March 26, 2005

自分のための御飯

CIMG0687 ゲノンの次に、普通の現代のアカデミシャンの書いたエゾテリズム系の本を読んでいるのですが、なかなかに辛いです。説明が一々転倒してるぅーって思っちゃうし、これってヒエラルキーの否定による疑似問題だ、って思っちゃう。トピックには興味あるし、読んで良かったって思う情報も含まれているんだけど……。
 そんなこんなでなかなか読み進めないながら、1人の週末にもちゃんと御飯を作ってます。
 昨日はホウレン草と玉葱の豆乳ソーススパゲッティ。いつもの半分弱と思って100g茹でたら、多いよ。それと前日の残りの茹で野菜にナッツソース。クルミやパンプキンシードなどと麦みそをブレンダーで混ぜたソースは、作り置きしておくと便利。デザートにドライマンゴーのマフィンケーキも焼きました。もちろん卵・牛乳・バターを使わないマクロビレシピです。小麦粉2カップ(うちのは自家製の「うどん粉」ですが)+重曹大さじ1/2+塩小さじ1/4をふるって、紅花油1/4カップ+穀物アメ1/3カップ+豆乳3/4カップ+リンゴジュース1/4カップ+オレンジエッセンス少々を混ぜたものと合わせ、ドライマンゴーをウォッカで戻して混ぜ合わせて、180度のオーブンで20分。超簡単です。
 このところ粉ものが多かったので、今日は穀類を摂ろうと思って、カブとひえのスープ、それと、アマランサスのナゲット。スープとナゲットの両方に、玉葱人参とニンニクをじっくり炒めたものを加えました。どっちも美味しかった♪ 雑穀は上手に炊けさえすれば、満足度の高いおかずになります。オカズって言うか、今日は主食も兼ねてましたが(本当はホウレン草入りの種なしパンも焼こうと思ってたんだけど、台所が混乱してきたので省略してしまったのです)。カブのスープはさすがにだいぶ余ってしまいました……

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March 25, 2005

Flower Fairies

CIMG0685CIMG0684 リメイクした妖精さん柄スカートですが、winter-cosmosさんに指摘されて、改めてCICELY M.BARKERという名前を意識してみました。で、アマゾンでA Deluxe Book of Flower Fairiesを買ってみました。
 1600円弱というお手頃価格にもかかわらず、表紙はアルバムみたいにクッションが入ってて、ページの裁ち切り三方とも銀張り、Flower Fairies of Spring, Summer, Autumn and Winter の四冊の詩画集がひとまとまりになって、さらに作者のバイオグラフィー、植物画のデッサンなども加えた解説、フェアリーで描かれている植物についての解説まである豪華本です。
 で、スカートの柄を探してみようと思ったんですが……神経衰弱は苦手~。やっと2つだけ見つけました。

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March 23, 2005

『世界の終末』

 引き続きルネ・ゲノン再読で『世界の終末 ―現代世界の危機―』。原著は1927年。

 「進歩」――まったく物質的な進歩を指していることを明記しておかねばならないが――と呼ばれるものの「恩恵」、あれほど賞賛されている「恩恵」の大半は錯覚ではあるまいか。 p.151
 人々はこの平等という妄想の名の下に、いたるところで画一性を押しつけようとするのである。 p.118
  「平等」や「進歩」の思想などほとんどの現代人が盲目的に受け入れ、その大半が明らかに十八世紀に形成されはじめた「俗人のドグマ」を相手にするとき、当然のことながら、これらの思想が自然発生的に誕生したと考えることは不可能である。これらは、もっとも厳密な意味で真の「暗示」によって生じたのである。……略……無秩序をこのまま保つことに何らかの利益を見出す者たちによって、これらの暗示はきわめて注意深くはぐくまれているのであり、また、すべてが議論の的になるはずのこの時代において、これらの暗示だけが決して俎上に載ることがないのだ。pp.118-119

 政治家の経歴が問題になる場合、……略……、完全な無能が障害となることは稀である。p.121
 無能という条件の下においてのみ、件の政治家たちは大衆の代表者、つまり多数者の似姿として登場することができるのである。……略……問題について事情に精通し、立派に発言できる者の数より、それについては無能力な者の数の方が比較にならぬほど多い。p.125
 「民主主義」は、純粋な知性がもはや存在しないところにのみ創設されるのであり、現代世界の場合がまさにその例である。ただし、平等は事実上不可能であり、いかなる平均化の努力にもかかわらず、人間間の差異を消滅させることは実際上できないので、人々は奇妙な非論理的過程を経て、偽のエリートをでっち上げるに至るのである。……略……これらの偽のエリートは、なんらかの形での優越性、きわめて相対的にして偶然的、かつつねに純物質的次元の優越性に基づいている。現状においてもっとも重視される社会的区別が財産に基づく区別、すなわちまったく外的で、もっぱら量の次元に属する優越性に基づく区別である……略……。結局のところ、このような優越性だけが、「民主主義」と同じ観点から由来しているがゆえに、「民主主義」と両立できる唯一の優越性なのである。 p.131
 多数者の目には、少数者が存在すること自体許しがたいのだ。なぜなら、少数者の存在は画一性と「平等主義」の偏執的欲求に反するからである。 p.151

 彼ら(現代の西洋人)には量だけが重要であり、感覚でとらえられないものは存在しないとみなしているので、行動しない者、物質的に生産しない者は、「怠け者」以外の何ものでもないと映るのだ。この点に関しては、通常東洋の民族に与えられている評価に言及するまでもなく、観想的次元がどう判断されているかを見れば十分わかるであろう。pp.152-153
 現代文明は人為的な欲望を増大させることをめざしており、すでに述べたように、それが満たすことのできる欲望以上の欲望をつねに創り出していくだろう。ひとたびこの道に踏み込んでしまえば、途中で止まることは非常に困難であり、またある一定の地点で停止するいかなる理由もないのだ。存在しないもの、その存在を夢想だにしなかったものが欠如しているからといって、人間が苦しむことはありえなかった。ところが今日では反対に、人間はそのようなものが欠けていれば、いやおうなく苦しむのである。なぜなら彼らはそれらが必要であるとみなすことに慣らされており、そのためそれらは実際に必要になってしまったからだ。p.154

 西洋人は、ある程度までその反伝統的、物質主義的精神を他の民族に浸透させるのについに成功したのだ。最初の侵略形態は肉体にしか及ばなかったのだが、今度の侵略は知性を害し、精神性を抹殺してしまう。ただし、後者を準備し、可能にしたのは前者であるから、結局のところ、西洋がいたるところで自らを押しつけるのに成功したのは、ひとえに暴力の力によることになる。…略…他の点ではひどく劣っている西洋文明が実際に優位を保っているのは、暴力の点だけであるからだ。 p.165

 無限の進歩や進歩への過度の期待を否定できる人でも、進歩そのものが実は認識の低落に導かれた迷妄にすぎないとまで言われると、びっくりするかもしれない。まして、平等や民主主義を正面切って否定された経験なんて、ほとんどないんじゃないかな。だからほとんどの人は感情的に拒否反応を示すのでは。私はどうやって近付いたんだったかなぁ……ガンジーやキングを入り口にしたから、軽率に拒否反応を起こさずに済んだのかな。でも、伝統的思想からちょっと離れていると、すぐに現代文明に呑まれてしまいますね。今回再読してみて、忘れてたことがたくさん書いてありました。

 解説の冒頭には、次のようなアンドレ・ジッドの言葉が引かれている。

――もしゲノンが正しければ、私の全作品は崩壊する。……そしてゲノンの書いたことに反対するいかなる理由も見出せないのだ。……しかしすでに賭けはなされた。私は年をとりすぎている。
 

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March 22, 2005

びすとろ希味

 半端に早い時間にお腹が空いて、風花でラーメンを食べようと出かけたが、休み。仕方なく北上中に、ふと、びすとろ希味のドアを開けてみる。「7:20までなら…」とのことで、運良く席が空いていた。平日でも予約なしでは入れない人気店。もっとも、その後席のキャンセルが出たとかで、急かされて追い出されることはなかった。
 以前から前を通るたびにいつも混んでいて気になっていたが、犬の散歩で早い時間に通りかかるとき、隣の車庫みたいなところで下ごしらえしているのなんかを見てるかぎりは、さほど高級店とも見えない。店の隣のクリーニング店が、いつの間にか半分、このびすとろのアネックスに変わっていたし、流行っていることは分かっていた。店名の看板がなくて営業中の札がかかっているだけという不思議さから、通称「営・業中」と呼んでいた。ネットで情報が見つかり、やはり評判がいいらしいとわかり、一度行ってみようと思っていた。

 予約なしの飛び込みと言うこともあり、一番安い2500円のコースをたのむ。デザートまで全20品が、テンポ良く次々に運ばれてくる。どれも印象に残る、バラエティに富んだ創作料理。次々に食べて、気が付くとお腹一杯。これ、6000円のコースなんか頼んだら、どんなことになるんだろう……
 お刺身の洋風ドレッシング、マグロと長芋・オクラのごま風味ピリ辛、豆腐とクリームチーズのムース、アボカドとトマトのディップでトルティーヤ、納豆とキムチのグラタン、肉みその最中、穴子と長芋のミルフィーユ仕立て温泉卵添え、マロンの一口スープ、鶏団子とパイナップルのタイカレー風味、野菜のせいろ蒸し、揚げ出汁餅、カボチャ入り揚げ団子の銀あん、ピザ、キャベツと烏賊のサラダ仕立て、和牛のカルパッチョ、豚肉のミソ焼き、鰹のたたき、にゅうめんのカレー風味、焼きおにぎり、デザート三種(キャラメルケーキ、ほうじ茶の一口アイス、クレームブリュレ)……全20品、苦労しつつも全部思い出せるくらい、一皿ごとの印象が強い。
 厨房にはけっこうな人数の料理人がいて、お魚も野菜もいいものを使ってて、この値段でもうけがあるのかというくらいのコストパフォーマンス。お酒の値段も安い。料理はお任せのコースか、コースの料理を一品で頼むことも出来るらしい。

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March 21, 2005

『世界の王』

 ルネ・ゲノン『世界の王』。10年以上前に人に借りて読んだことがある。平河出版ってとこはトンデモ系に紛れて、こんなまともな本も出しているから困ったものだ。

 ゲノンは伝統的思想家の中では、群を抜いて分かりやすい文章を書く。ありのまま分かりやすく書いてくれるので、現代人の目にはかなりオカルティックに見えるだろうけど。
 伝統的思想と言っても、普通に生活しているとそれに触れる機会は全くない。それを否定しつつ否定していることさえも覆い隠すのが現代の顕著な特徴だから。認識を物質的次元に限定し、霊的源泉との繋がりを断った、無秩序で無原則な現代を、ゲノンは世界の暗黒化の、一つのサイクルの最終段階と見なしている。

 この本は、世界(当然ながら、可視的、物質的世界に限ったものではない)の中心に関する研究。霊的=精神的中心の像であるアガルタという隠された都市の伝承や、至高の中心の二次的な像である、各文明に適応した二次的な中心を示す聖地、聖なる島、楽園の伝承が伝えてきた象徴性を解説している。カリ・ユガの間、至高の中心は可視的世界からは隠されているため、われわれは「失われた何ものか」に関する伝承を知るばかりとなる(楽園からの追放、失われた言葉、聖杯)。
 東方の三博士はアガルタから来たとか、オカルト好きの人々が飛びつきそうなネタは満載だけど、語られているのは世界のサイクルと照応(コレスポンダンス)の法則、象徴的理解など、ごくごく「当たり前」な伝統的思想。

 前世紀初頭に書かれた文章でありながら、今日の世界の暗黒面を鋭く衝いているのは、世俗的な意味での歴史を越えた伝統的視点の真骨頂。ネオリベ、ネオコンの世界支配も、世界の暗黒化の過程における、一つの最終局面の表象なのでしょうね。ここまで徹底して近代を否定する思想家に触れたのは久しぶりで、ちょっと途方に暮れる。

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March 18, 2005

現場写真

CIMG0648
 風があって意外と寒い一日でした。
先日川に落ちたハンナさんをお風呂に入れました。往生際の悪いやつなので、二人がかりで大仕事です。ようやくお風呂から上がると、部屋の中を走り回ってハイテンションがしばらく続きました。
 こちらの写真は、問題の、ハンナが落っこちた石垣の現場写真です。けっこう高かったけど……丈夫な子で良かった。

 犬の洗濯で疲れたので、今日は早めの晩ご飯。大根おろしと壬生菜の葉っぱの部分をミキサーで刻んで、玉葱少々、鷹の爪と炒め合わせて豆乳を合わせてソースに。パスタと合わせてから、上に壬生菜の茎の部分を植竹式ソテーにしたものを飾りました。手強かった大量の大根たちも、ようやく終わりが見えてきました。

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March 17, 2005

ホウレン草とポテトのハーブクランブル

 雨がけっこう激しくって、今日は犬の散歩にも出られず、化粧もせずに過ごしてしまいました。これじゃ引きこもりに逆戻りかしらと、やや強迫観念じみた不安も。
 仕方なしに掃除機だけかけて、買い込んだ本をパラパラとめくるうちに日が暮れてしまいました。ぜんぜんやる気が出ません。
 晩ご飯は、
   ・水菜と芽ひじきのお好み焼き
   ・ホウレン草とポテトのハーブクランブル
 お好み焼きというか、チヂミというか、小麦粉とリブレフラワーをあわせた生地で、ラー油酢醤油でいただきました。
 クランブルの方は、またもや『ベジタブルでフルコース』より。マッシュポテトを野田琺瑯の浅型容器に敷いて、玉葱ニンニク、コーンと炒めて味付けたホウレン草をその上に、更にその上に、砕いた車麩を散らして魚焼きグリルでこんがりするまで焼きました。ほんとは、車麩を砕いてからオリーブオイルとパセリと混ぜて塩をふってから上に散らすんですが、時間がなかったので省略。手抜きしてもパン粉よりも風味がまさって美味しかったです。
 料理を始めると、不本意ながら機嫌が良くなってくる……その料理を始める気力が、なかなか湧いてこないんですけどね。

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さかしま

 ユイスマンスの『さかしま』、やっと読了。
 文章をなぞること自体が快感であるような読書。こういう小説は、書いていて楽しかったろうなと思う。
 ユイスマンスはヴィジュアル・メモリーを持っていたらしい。一度訪れただけの教会の様子を、何年か経ってから詳細に描写することが出来たという。込み入った文体での描写はユイスマンスの十八番だが、『さかしま』では視覚だけでなく、味覚、嗅覚、聴覚の描写も存分に楽しめる。描写された感覚を追体験しようとするから、読むのに時間がかかる本だった。
 作中で賛美されているボードレールやマラルメやヴェルレーヌを、ちょっと読んでみたくなる。

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March 16, 2005

かにすき

 犬の散歩コースからいつも見上げていた、かにの山よしで、かにすきコースを食べてきました。もう、カニの季節も終わりですね。
 かにすきはたっぷりのボリューム、甘味のあるカニ身を堪能いたしました。でもお造りや天ぷらは、ほんのちょっぴりだったなぁ。八寸もたいしたことなかったし。とはいえ、もう、お腹一杯です。追加しようかと言っていたカニ寿司は、あえなくお土産に。BECKを見ながらのお夜食にする予定。単品で欲しいものだけ取った方が良かったかな……

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川に落ちました

 ハンナさんが川に落ちました。生涯2度目です。
 今回は、川床の真下を流れる鴨川の分流の最下流、五条西橋詰で、1メートルくらいある石垣から、豪快にドッぽん。初対面のダックスとくんくん匂いを嗅ぎあっているうちに、後先見ずに後ずさりして、ずり落っこちてしまいました。
 1メートルの石垣を見上げてしばし呆然としているハンナ。私は大笑いしながら石橋を渡って、反対がわの低い岸辺へとハンナを誘導。ハンナは浅い水をばしゃばしゃと走って岸に上がってきました。しばらくは腹を立てつつショックを受けていたハンナでしたが、今日はいい天気。すぐに機嫌を直し、ルンたったとお散歩を続けました。
 もちろんけが一つありませんでした。

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March 15, 2005

マロンの豆腐チーズケーキ

CIMG0637
 去年の宅配で毎週届いて食べきれずに冷凍していた栗、もう味も落ちているだろうと思い、マロンクリームを作りました。茹でてくりぬいた栗と、豆乳と穀物飴、メープルシロップに紅花油と寒天パウダーを入れて煮てから、ブレンダーでなめらかになるまで混ぜると、マクロビ版モンブランのマロンクリームになります(from『あまくておいしい!砂糖を使わないお菓子』)。
 これをパンケーキにのっけて食べたんですが、けっこう大量に出来てしまって食べきれなかったので、今日になって思い立ってケーキにしてみました。
 これも同じパトリシオさんのレシピにあったパンプキン豆腐チーズケーキを参考に、かなりアバウトに作りました。マロンクリームに豆腐とアーモンドプードルを混ぜて甘味を足し、タルトを焼くのは面倒だったので、タルト型の底にココナッツパウダーを敷いただけで、マロンクリームを流し込んで30分ほど焼きました。ちょっと膨らんで表面がひび割れてきて、ちゃんとケーキになりました。
 マクロビのケーキは素材の味が生きていて私は大好き。ほのかに豆腐の風味を感じるから、市販のケーキの固定観念からすると、ちょっと外れるかもしれませんから、好き嫌いは別れるかな。

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March 14, 2005

野菜パワー

 本日の晩ご飯は、
   ・ジャガイモのスープ(残り物)
   ・壬生菜のビーフン
   ・大根の竜田揚げ
でした。
 竜田揚げにする大根の皮を千切りにして、壬生菜とニンニクと、乾燥大豆蛋白と炒めて、先週大根を炊いたときの煮汁の残りで味付けての、玄米ビーフン。
 大根の竜田揚げは、再び「ベジタブルでフルコース」より。この前神楽坂の馳走紺屋で、ごぼうの唐揚げというのを食べて美味しかったんだけど、たぶん同じ調理法。大根を蒸して火を通しておいて、ニンニクショウガ醤油にしばらくつけこんで、レシピでは片栗粉、今日は小麦粉とリブレフラワーをまぶしてこんがり揚げるだけ。シンプルだけどとっても美味しい! 大根の水分と甘味が閉じこめられて、やめられない止まらないお味。唐揚げは鶏肉やフグじゃなくても美味しいのだ♪ ごぼう、大根の他、レンコンや長いも、筍でも美味しいそうです。筍なんて、美味しさが想像できちゃう感じ。

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March 13, 2005

卵を使わないオムライス

CIMG0635
 曇り時々吹雪一時晴れ。Kyoto Dog Cafeに行く間にみるみる吹雪いてくる。ケーキを食べつつ晴れ間を待つ。
 雪のやみ間を見計らって、先に犬を帰し、念願のバターケースを、結局大丸で購入。晩ご飯の買い物をして帰宅。

 本日のメニューは、
   ・ジャガイモのスープ
   ・小松菜のごま焼き
   ・卵を使わないオムライス
 でした。
 小松菜のごま焼きは、ショウガ、ニンニク、醤油とすりごまであえた小松菜のおひたしを、一口大にぎゅっとまとめて粉をはたいて焼いたもの。『ベジタブルでフルコース』というレシピ本より。この本も使えそうなメニューがたくさん。キャベツ、ごぼう、大根、人参など、一種類の野菜でオードブル、スープからメイン、主食とデザートまで。ワンパターンになりがちな食卓が華やかになりそう。
 オムライスの方は、豆腐とホールコーン、豆乳に、レシピでは片栗粉でしたが代わりにくず粉を入れて、ブレンダーでなめらかになるまで混ぜて、ターメリックで色を付けます。パンケーキのように焼くと、見た目は感動的なまでに卵焼き! ただし、味はあまり無いので、コーンを増やすかコーンミールを使うかして、しっかり目に塩味をつけた方が美味しいかもしれません。まぁ、アレルギーがあるわけじゃないので、オムライスの時くらい卵を買ってくればいいのですが。こちらは『ハッピーベジタリアン』というレシピ本より。インド系のベジ・レシピなので、エバミルクやバターを使うラクト・ベジなのですが、卵を使わないカスタードのレシピなんかもあって便利そうです。それと、なぜ菜食か、を様々な角度から扱ったコラムのページが、説教臭いながらも充実しています。食肉用の家畜を育てるために、どれだけの資源の浪費と環境汚染があるか、など、分かりやすく書かれています。出版社はサイババ系っぽいですが。

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March 12, 2005

ベトナム料理 333

 京都在住のKくんと、河原町御池のベトナム料理店へ。333で「バーバーバー」と読むらしい。
 こぢんまりしたお店で、客足は絶えないが、金曜の夜でも予約なしで入れる程度。青パパイヤの炒め物、蛸のサラダ、フォー、生春巻き、海老のすり身の揚げ物、ビーフン……あと思い出せないけどいろいろ、お味はどれもとっても満足。パクチーもたっぷり。アジア人で良かったって感じです。
 たっぷり食べて、ビール2本ずつのんで(それだけで各自1400円だわ)、1人3700円程度とコストパフォーマンスも良し。

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March 11, 2005

イケズの構造

 土日に会ったMくんが置いてった『イケズの構造』。こんな恐ろしい本を読んだのは、『ホット・ゾーン』以来かもしれない。
 何が恐ろしいって、日本語で書いてあるかのような文章なのに、この本自体が京都弁の思考に貫かれているせいで、随所で理解不能な壁にぶち当たる。
 曰く、イケズは陰険ではない、陰険は裏表があるが、イケズは正面から堂々と、ただし微笑みつつ、万力のような握力で握りつぶす。……その微笑みが既に陰険なんですけど。
 曰く、イケズは意地悪でもない、滑稽なものを揶揄する方法論ではあっても、嗤うことを目的に人を貶めたりはしない、受け身のもの。……人の滑稽さを揶揄するのが意地悪じゃないって、すっごい論理。

 そして「ぶぶづけ」より恐い「コーヒーの勧め」。
 a.「コーヒーのまはりますか」→意味のない挨拶なので、コーヒーが出てくることはない。頃合いを見てお暇しましょう。
 b.「そない急かんでもコーヒーなと一杯あがっておいきやす」→これも挨拶なので遠慮しなければいけない。しかも、なんでですのん、よろしやん、コーヒーお嫌いやったら紅茶にしまひょか、もう淹れかけてまっさかい、な、などと執拗に勧められても、あくまで固辞しなければならない。
 c.「喉渇きましたなあ。コーヒーでもどないです」→さっさと帰って下さい、の意。「喉渇きましたな」の部分が、疲れを強調して撤収を促すメッセージであると気付かねばならない!ひぃ~っ!
 d.「コーヒーでよろしか」→唯一誘いに乗っても良い。何が運ばれてきても感謝して粛々と飲み干してから退散すべし。

 著者は平安時代の宮中に起源を持つイケズを、洗練された言葉遊び、精神的余裕、と解釈して擁護しているが、むしろアルカイックなメンタリティに近いよなぁと思う。不運やばつの悪さを嗤うことが大好きなのって、部族社会が生きている土地で多いでしょ。京都もある意味、京都人という部族が洛中に蠢くアルカイックな社会なのかも。自他の不運や愚かさを嗤う文化自体は、けっこう好きだと思う。でも、この本に出てくる数々のイケズの実例には、背筋がゾゾーッと寒くなる。

 ちょっと落ち込んだのは、この本を読んでから、自分のブログを何気なく読み返してみると、「えっ、これってもしかしてイケズ?」と思う記述が随所に。私はキツいこと言うだけだと思ってたけど、その言い方が結構イケズな時があるのかも……。イヤ~ン、な感じ。

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March 09, 2005

バレエ・カンパニー

 ご近所にミニシアターが出来ただけで、これ程映画に足が向くとは思ってませんでしたが。今日も今日とて京都シネマのファンデー500円引きに釣られて、『バレエ・カンパニー』を見てきました。

 冒頭のステージ・シーンから、まるでドキュメンタリーのような……素っ気ないカメラワーク。バレエ団の人間模様はさらりと表面をなぞるだけで、過剰なドラマ性はなく、ただただ身体表現の極限を目指すダンサーと振付家の踊りへの没入が、真に迫ってもの凄い。
 ダンスシーンはさすがにすごい迫力で、躍動する身体が感動的。身体性を突き詰めることで、個人性を越えてしまうのかな。バレエとなるとなかなか見に行かないけれど、千円ちょっとでああいう身体表現の凄さに触れられるって、映画は大衆の娯楽なんだなぁと再認識。

 晩ご飯は、C's blogさんで見た梅ごぼう御飯が美味しそうだったので、玄米鳩麦押し麦御飯に梅干しとごぼうと大豆を放り込んで炊いてみました。あと、持てあまし気味の大根を凍り豆腐と煮て、ちょっと酢を利かせてみました。

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March 08, 2005

ルネ・ラリック展

 ポンテベッキオでランチののち、大阪からJRで京都に戻ったので、せっかくだからと伊勢丹の美術館「えき」KYOTOで、ルネ・ラリック展を見て参りました。
 アール・デコになってからの作品にはあまり魅力を感じないし、アール・ヌーヴォーでもややシンメトリカルなデザインをするのでストライクゾーンど真ん中というわけではないのだけど、トカゲ、カエル、蛇、蝉やトンボ、バッタなど、変わったモチーフを使うところが面白い。もちろんシレーヌ(セイレーン)などのモチーフも美しいし、ガラスそのものの質感も楽しい。ガラスって、時を留めてはいるけれど、どうにも透き通った液体なんですよね。
 ミュシャを見たときには、むせ返るような甘い――阿片の――香りを感じましたが、香水瓶のデザインを多く手がけたラリックには、香りよりもむしろ音楽を感じます。リズムと、旋律と。モチーフを繰り返す造形そのものがリズミックだという以上に、透明で硬質でいて柔らかい触感というのは、室内楽が表現するインスピレーションに近いのでは?
 展示作品数はそれ程多いわけじゃないと思いますが、解説が充実していて楽しめる催しになっていました。ただ、ミュージアムショップ好きの私には、ここの売店はしょぼすぎ。せっかくデパートの一角にあるというのに、僅かな関連書籍の他にはアール・ヌーヴォー「調」ランプやガレ「風」タンブラーしか置いてないって、何事。ラリックの出店くらいして欲しい。フクロウのタンブラーがあったら、きっと衝動買いしちゃったのになぁ。

 ついでに伊勢丹でお洋服もちょっと見て歩いて、四条まで来てからバターケースが欲しくて見て歩いたけど気に入ったものが見つからず、藤井大丸でワインを一本だけ買って帰りました。
 先週からたくさん人に会ったので、知恵熱出そう。っていうか、体力が足りない。せっかく暖かくなってきたんだから、もっともっとフラフラ散歩に行きたいのになぁ。

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ポンテベッキオ

 最近月一で会っている大学時代の友人Aちゃんとランチ。梅田の明治安田生命ビル30階、MODO DI PONTE VECCHIO
 京都には高いビルがないから眺望が珍しくって、すっかりおのぼりさん気分。窓際の席に通されて、春めいた明るい日差しが眩しいほど。
 深い青色のテーブルクロスに、レザーの椅子。三越かどこかの家具売り場で、色違いで同じタイプの椅子を試したことがあるのだけど、座り心地がとてもよい。ただしここで使われているのは、お店のロゴ入りで特製。よく使い込まれて手に馴染むオリジナルのカトラリー。サービスはそつなく、過不足なく。あ、でも、Aちゃんがガス入りのミネラルウォーターを頼んだのに、ガス抜きを持ってきたな。すぐに取り替えてもらいましたが。
 お料理の方は、ランチのセットでパスタとメイン一品とデザートにコーヒー又は紅茶。私は自家製ソーセージと芽キャベツのフェデリーニ?だったかな、細い平たい麺。メインはお魚にインゲンや空豆の緑のソース。どちらも一皿の印象がちゃんと残り、とても美味しかったです。パンも3種類、どれも美味しい。デザートはオレンジとグラニテを選びましたが、これは大したことなかったです。ポーションは少なめなので、女性でも楽にコースが入る感じ。グラスでポール・バラをいただきました。このお店は、夜も一度来てみたいなと思わされました。
 店内満席にはなっていませんでしたが、相変わらず、ほとんどが女性客。男は働き過ぎじゃないのかしら。同一労働同一賃金でワークシェアリングが進めばいいんだけどね……。
 子育て真っ最中の彼女と、引きこもりから立ち直ろうと奮闘中の私と、愚痴を言い合い、のんびりと時間を過ごし、しばしのリラックスタイムでございました。

 JRで京都に戻ったので、伊勢丹の美術館でラリックを見ましたが、それは次項

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March 06, 2005

帰洛

 無事に利休忌の茶事を終え、京都に戻って参りました。本当は後片付けこそ手伝って来なきゃいけなかったのですが、大学院のときの後輩が京都に来るので、大急ぎで帰洛。
 7時半頃一旦自宅に戻って、すぐに四条烏丸で待ち合わせ。東京から来たMくんと、去年から大阪在住のもう一人の後輩Kちゃんと合流。大丸横の錦魚亭で一頻り盛り上がりました。二人とも、会うのは10年ぶりくらい。話が尽きません。フランス文学から医療問題などなど、話題は豊富。お店は名前の通り魚料理がメイン。京都らしい内装、気の利いた盛りつけで、わりと良いお店です。
 もう一人、京都在住のNくんも同じ研究室出身で、彼の合流が11時過ぎるとの連絡が入り、MくんKちゃんとも泊まっていけるとのことで、お酒を買って我が家にて二次会。Nくん到着後も深夜まで盛り上がりました。そしてリビングで雑魚寝。
 朝食後、連れだって錦市場から京極、三条をブラブラ。観光客の歩調と目線で歩いてみると、いつもとは違う新鮮な感じがするから不思議。ハンナ連れだったためドッグカフェNESTで軽くランチ。フードメニューが充実してきて、ますます便利。
 カワイい後輩たちと再会を約して別れてきました。

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March 04, 2005

神楽坂

 昨夜は神楽坂の「馳走 紺屋」で、女の子限定雛祭りの宴。地図を見ていったんだけど、道幅の感覚が分からず、これは辿り着けないかも……と不安になりましたが、奇跡的に一発でお店を発見。神楽坂って、ほんとに坂道なのね……と息切れ。
 風情のある小路に佇む古い建物。良く教育された若いウェイターさんのカワイいこと。お料理もそれぞれ美味しくて、ボリュームは少なめでしたが、のんべーの四女子には充分でした。
 帰りには雨が降り出し、池上線で一駅乗り過ごして歩いて帰る間、冷たい雨に濡れましたが、なぜか風邪も引かずに「私って結構頑丈なの」と再確認。
 起きたらすっかり雪が積もっていて、まだ降ってた……。今日はお買い物に出たいと思ってたけど、これではその気も失せてしまいました。大人しく家で本を読んでいようっと。

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March 03, 2005

ミュシャ、サテュロス、東南屋の鴨鍋

 午前中、母を手伝って利休忌の準備。
 午後、東京都美術館でミュシャ展。平日の昼間なのに人多すぎ。でも上野駅に降りた瞬間から、すごい解放感。混んでたけど、久しぶりの美術館は楽しかった。アールヌーヴォーは好きだけど、その中ではミュシャって、そうでもないな、と思った。私には甘すぎる。コマーシャルデザインとしてはすごいと思うけど。やっぱりビアズリーの病気っぽさの方が好きだな。ミュージアムショップで、ミュシャデザインのサーブスプーン&フォークと、クリュニューでは見あたらなかったウサギ柄のゴブラン織りバックをついつい買ってしまう。
 3時、C子さんと合流して「踊るサテュロス」を鑑賞。いい男、いい身体してる。二千年も海底にいたなんて信じられない。顔を見ると阿修羅に似ている気がする。紀元前後までさかのぼってしまうと、文明は西洋も東洋も似通っていて、普遍的。サテュロス展とコラボで出店を出していたLe Chocolat de Hのチョコレートを、C子さんに勧められて買ってみる。
 地下鉄で浅草へ。東南屋で今年初の鴨鍋。たっぷりの鴨肉をローズ色で堪能。
 帰りの電車では一旦寝過ごしてしまったが、何とか終電に間に合って帰宅。京都にいるときは、電車の時間なんか気にしないで平気なのになー。

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March 02, 2005

東京へ移動

 週末に実家で利休忌の茶事をやるので、ついでに早めに上京して友人たちと会う時間を作ろうと、本日単身東京に移動してまいりました。フリとローザ、二匹の犬にどつき回されて、幸福の絶頂です。
 河原町のタカシマヤで、母には七味家の七味と山椒の豆袋パックを、明日デート予定のC子さんには、味味香のカレーうどんをお土産に買ってきました。
 寒いのは京都だからかと思ってたら、東京も寒~いです。週末には雪が降るとか降らないとか……。

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March 01, 2005

『ユイスマンス伝』読了

 600ページ近くあったけど、後半に行くほど引き込まれた『ユイスマンス伝』。原著は1958年。

 とりあえず面白かったエピソードを一つだけ。ユイスマンスの友人で、マルタ騎士団の団長の血を引くヴィリエ・ド・リラダン。落ちぶれ果てた名門貴族の末裔は、ボクシングジムでサンドバック代わりの練習相手として雇われていたこともあるほど、生涯貧苦に喘いだ文学者だったらしい。だが、誇りだけはまさに名門貴族で、人の施しを受けることなど堪えられない彼を、どうやってさりげなく援助するか、友人たちは知恵を絞ったらしい。彼の愛人は家政婦で、一人の子供もいた。跡取りである一人息子を、死ぬ前には嫡出子にする意志が彼にはあったが、そのためには愛人と正式に結婚しなければならない。彼は貧苦の中で胃癌に倒れるのだが、本当の病名を知らされなかったため、自分の死が近いことを知らず、愛人との結婚を先延ばしにする。婚姻届の妻の職業欄に「家政婦」と書かれるのが、誇り高い彼には許せず、また、回復したときには妻の身分の低さが悩みの種になると分かっていたからだ。ユイスマンスやマラルメは彼を説得しようと四苦八苦する。結局は、ある神父が彼を説き伏せ(おそらくは病名を告げ死が近いことを知らせたのだろうと書かれている)、病床で結婚証書に署名する段になって、妻となる女は、自分は字を書けないと言い出した。彼の誇りがどれほど傷付けられたか、可笑しくも悲劇的な、印象に残るエピソードだった。

 さて、デカダンス運動の火付け役となった『さかしま』を、実はまだ読んでない(今日買ってきた)。カソリックへの改宗とその後の神秘主義的著作に興味があったので、デカダンスの聖典みたいに言われている『さかしま』は、まぁそのうち読めばいいやと思って後回しにしていたのだが、伝記を読んで俄然読みたくなってきた。
 ゾラの弟子とみなされていたユイスマンスが、自然主義から離れて己の精神を追い詰めていく出発点となったのが、この作品らしい。

(レオン・ブロアによると)ユイスマンスのこの上ない功績は、人間の快楽は限られていて、その欲求は無限であり、各人は遅かれ早かれ、「牛飲馬食をこととするか、神の顔を見るか」のどちらかを選ばねばならない事実を示したことだった。 p.138
 人間の卑しさに対する徹底的なペシミズムの先には、「もはやピストルか十字架の下しか行く道はない」(P.139)。こう言っても、納得する日本人はおそらく少数だと思う。ピストルはともかく、十字架の下に行ったら、「宗教に救いを求めちゃったのね」くらいにしか思わないのが普通だろう。実際、お手軽な救いに飛びつく人も多いし。
 「人間の欲望には限りがない」というのは、あちこちで振りかざされる決まり文句で、だから戦争も環境破壊もなくならない、というわけ。でも、ユイスマンス伝を読んで思ったのは、「限りない欲望」に堪えられる人間が少ないからこそ、お手軽な欲望を満たすことにきりがないんだな、ということ。欲望を満たすことが出来ないという現実に直面して、刹那の享楽で身を滅ぼすか、絶望して死ぬか、精神的充足を求め俗世を捨てるかまで突き詰める人ばかりなら、世界はものすごく静かになるはず……宗教戦争以外なくなるだろうね。

 デカダンスから神秘主義的傾向への敷居は低く、ユイスマンスはジル・ド・レェの悪魔主義を『彼方』で描くことになる。ジャンヌ・ダルクと共に戦った若き英雄が、途方もない豪奢と残虐の限りを尽くした挙げ句、処刑を前に悔悛し、人々の祈りに送られて死んでゆく。19世紀当時のフランスと中世、両者の悪魔主義を描いたこの作品は、おどろおどろしいモチーフにもかかわらず、既にペシミズムを越えて、救いを求める者の物語となっている。

 信じたい、という欲求に駆られながらも、さんざんにためらう様子が『出発』で読める。劇的な改心の体験はなく、「気付かぬうちに働いている胃の消化に類する」(P.270)ような緩慢なプロセスを経て、彼は信仰に立ち戻る。

 感動的だったのは、ユイスマンスの最晩年の闘病の様子。舌癌ということで、歯痛から始まり、最後にはかなり壮絶な病状になっていく。ユイスマンスは『腐乱の花』(←絶版?アマゾンでもbk1でも出てこない)で、ありとあらゆる病苦を身に受けて、夥しい血膿の中でキリストの花嫁としての法悦に浸るに至ったスヒーダムのリドヴィナという福者(ユイスマンスは聖女と呼ぶ)のことを描いが、その何分の一かの苦しみを、彼自身が引き受けることになったわけだ。『腐乱の華』の中でユイスマンスは、神秘的な身代わりの教義に辿り着いている。キリストに倣い、苦しみを引き受けることで、世の罪の許しを神に請うというもの(これは救貧活動などに当たらず専ら祈りに身を捧げる観想修道会の存在意義でもあると彼は言う)。ユイスマンスは顎に穴があき、その肉が腐臭を放つという状態になりながらも、モルヒネの投与を、「神が与えて下さった苦痛を、地上の忌まわしい楽しみに変えようとなさるんですか!」と言って拒んだ。書いて、信じたことを、本当に実行できる人がどれだけいるだろう。そんな彼の晩年のことはまったく知らなかったので、とても衝撃的だった。

 印象的だったユイスマンスの言葉をもう一つ。
 彼の診察をした医者が、彼よりも先に癌で死んで、埋葬通知を受け取ったのだが、その医者が診察代を受け取らなかったことについて、言ったセリフ。

彼が診察代を払わせなかったのは、いい思いつきだと思わないかね。だってそれを払ってしまえば、私たちは貸し借りなしになり、そうなれば、こちらは彼のために祈る必要はなくなるからね。ところで今彼に必要なのは、たぶんお金より祈りなのだ。(P.522)
 さんざん迷って買った甲斐のある本だった。

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