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June 2004

June 30, 2004

かわいい犬で改心、大量殺人未遂

 なんかホッとしちゃうニュース。
 CNNこぼれ話より

大量殺人計画の男、かわいいイヌに会い「改心」
2004.06.30
Web posted at: 10:57 JST - REUTERS

 トロント(ロイター) トロント警察によると、終身刑を望んで大量殺人を計画、車に武器を積んでトロント市に侵入してきた男が、犯行直前に「かわいいイヌ」と偶然出会ったことから改心し、殺りくを思いとどまる事件があった。
 調べによるとこの男は、路上などで手当たり次第、大勢の人々を殺すつもりだったと自供している。精神鑑定を受ける予定。
 トロント警察によると、男が車を止めて武器を取り出そうとしたところ、かわいいイヌがじゃれついてきた。イヌと遊ぶうちに、気持ちが和らぎ、計画を取りやめて警察に自首したという。
 男は、「『こんなに人なつっこく、かわいいイヌがいるということは、この地域に住むのはいい人々に違いない』と思い、計画を中止した」と話している。
 男の車の中からは、弾薬6000発、ライフル2丁、ショットガン、半自動短銃、回転式短銃、エアーライフルなど銃器のほか、ハンティング・ナイフとなたも見付かった。

よっぽど寂しかったのか……? 本当は誰も殺したくなかった、っていうタイプの人だったのかな。何にしても、殺人者になる前に、それを思いとどまらせる出会いがあって良かった。それまでロクな出会いがなかったのかも知れないけど、必要としているなら、犬とでも、人は決定的な出会いが出来るんだ。
 やはり町には犬が必要なのだな、うんうん。
 起こらなかった大量殺人。

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THE BLUE HEARTS

 いろいろ絡み合っての上なんだけど。

 ひとつ、河原町のOPAのバーゲンに行ってダンナの服を選んでるときにブルハがかかってたんで、ズボンの裾上げしてる間に上の階に入ってるタワーレコートで、ブルハの3枚組BOXのCDを買ってきて。テープは一応アルバム2枚持ってたけど、CD持ってても後悔しないと思って。それで今聞いてる。

 ふたつ、ダンナのブログにもあるけど、自民党の憲法調査会の惨憺たるさまを思うと、これ程までに世界理解が違うのだと、夫婦別姓なんてこれらの長生きしそうな親爺どもがみんな死なない限り通らないのかと思うと、気が遠くなったり。こちらのブログも参照。
 
 みっつ、NPO型インターネット新聞JANJANの特集で非暴力関係のドキュメントを久々にまとめて読んだり。

 それで結局、あたしが何処にいるのか、ごまかしてちゃいけないなと思ったり。

 1987年、ブルハの1stアルバムが出た年に私は大学生だったわけですよ。レーガン政権は2期目を迎えていたけど、私はそんなことあんま気付いていなかった。国際政治なんて所与だったわけで。
 17年後の今、言い訳の利かない年になっている。これから後の世代に対して、「当時の大人」の一人になってしまう自分が居るんですね。選挙行かないわけに行かない。

 出生率が低いのは女が元気になったせいかもしれないけど、それが女であろうと、誰かが元気になることは悪いことじゃない。出生率を上げるには、専業主婦を優遇するより、夫婦別姓を認めたり婚外子差別をなくす方が合理的なのに、どうして「夫婦子供2人のモデル世帯」にこだわりやがるんだ。私は左翼じゃないし、ハッキリ言って伝統主義者なんだ。ほんとは無神論者よりは頭のいい右翼の方が好きなんだ。なのに、他事総論さんでも書いてあるが、こないだの朝ナマで、女性天皇を認めると夫婦別姓・同性婚・シングルマザーに扉を開くことになるから自民党親爺たちの腰が重いって……夫婦別姓がそんなに遠い話なんだと思うと、もう、悔しくて涙が出る。だったら自民党親爺ども、天皇の側室制度も進めろよ! 国民感情が側室を受け入れないというなら、国民の事実は未婚の母の優遇を求めてるよ?

 非暴力の手法が功を奏したとして、起きる出来事は「起こらなかった紛争」「流されなかった血」なわけで。……いつまで我慢すれば「現実主義者」が非暴力の効果を認めるんだ。起こった戦争に投下された弾薬数は統計が取れるけど、起こらなかった戦争は数字にならない。何を非現実的というのか、結構難しいところだと思うんだけど?
 ああ、悔しくて涙が出る。

 甲本ヒロトが今でもまだ歌ってるって、それは一つの希望だよねと思ったり。マーシーも一緒に。
 ああ、涙がでる。まだ涙が出るんだよ。

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June 26, 2004

ボリス・ヴィアン

 ちょっと前に『うたかたの日々』を読んで、一緒に買っておいた『心臓抜き』を昨日読み終わりました(ともにハヤカワepi文庫)。
 ジュリーが音楽劇でボリス・ヴィアンを演じたというのを知っていたので、本屋で見かけて手が伸びた。生前は小説では認められなかったが、ジャズ・トランペッターなど多才な、ある種の時代の寵児みたいな人だったよう。

 『うたかたの日々』は、莫大な遺産を持つ主人公が、美しい女を妻にするが、彼女は心臓に蓮の花が咲くという病に冒され、男は彼女のために湯水のように金を使い果たしてゆく……という話。ポップなイメージに溢れるおとぎ話のようで、登場人物たちはみな、どっか欠けてて純粋で無関心でふわふわと薄っぺら。とても今日的なのかな。その軽薄さがイヤな感じがしないのは、資本主義の倫理に反する無駄遣いが肯定されてるからかな。全編が前時代的無駄遣いの嵐。読みながらジル・ド・レェの豪奢な散財を思い起こし、引き比べて20世紀の軽さを感じたり。断ち切られた根と、始めから根無しであることの違い。

 『心臓抜き』は、私にとってはちょっと精神有害な本だった気がする。読んでいる数日間、本とは直接関係なく、自分の中の理由のない不安とか焦りとかが揺さぶられ、非常に精神状態が不安定になることが度々あった。再読はしない方が吉でしょう。
 過去を持たず成人として存在しはじめた精神科医ジャックモールが、自らの空虚を埋めるために他人の欲望や情熱を精神分析することを求めるが、彼が滞在する海辺の村では分析の対象がなかなか見つからない。冒頭で彼は三つ子の出産に立ち会うが、母親は妊娠・出産を彼女にもたらした夫を憎み、夫はやがて6本足の船を造り海の向こうへと去ってゆく。村では残虐な老人市(奴隷市のようなもの)が開かれ、職人たちは小僧を手酷く虐待している。村を流れる赤い川には、船を浮かべた男ラ・グロイールが、村人が流す汚物を歯の間で拾い上げる代わりに、金と恥を与えられている(村人は恥を感じない)。主人公が滞在する館では、母親が三つ子を愛することに情熱を傾け、ありとあらゆる危険を想像しては子供たちを危険から遠ざけようとする。子供たちは青いナメクジを食べて空を飛べるようになるが、それを知らぬ母親は、彼らが庭の外に出て危険に会うことを怖れ、最後には子供たちを鉄の檻に閉じこめてしまう。
 この母親、どっかで覚えがあるような気持ち悪さ。三原順もこういう気持ち悪い親子関係を描くのが上手かったけど、彼女の漫画は凄い好きなんだけどなぁ。この小説の母親はひたすら気持ち悪かった。村の方の一連のエピソードはわりと好きだと思う。神は贅沢だ、とか、金と恥を受け取るラ・グロイールとか。
 ラスト、私は「子供たちは飛べるんだから、母親の試みはいずれ無駄になるんだろうな」と思って読んでいたのだが、解説を読むと、飛べるにもかかわらず子供たちは閉じこめられてしまった、というネガティヴな結末と読むべきなのか?

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June 23, 2004

はんな食べてきました

 ああ助詞が抜けてる。はんな「で」食べてきました。ハンナはまだ無事です。
 「ワイン&自然派和食はんな」、前から気になってたお店。とっても美味しかったです。
 結構無農薬とかにこだわってるんだけど、お値段もそこそこお手頃。個室とカウンター席があって、今回はカウンターで板さんといろいろお話ししながら楽しみました。
 いただいたのは、海老の湯葉春巻き、賀茂茄子の揚げ出し、筑前煮のコロッケ、鱧の炭火あぶり、万願寺唐辛子の天ぷら、タコと大豆のやわらか煮、黒貢米のおこげwith地鶏きのこあんかけ、もち豚角煮丼……白ワインをカラフェで、赤ワインをグラスでいただいて、おなか一杯、結構よく飲んで、2人で1万円くらい。
 鱧は落としもあったけど、ちょっと珍しいんで焙りでいただきました。香ばしい薫りとモッチリさっぱりした歯ごたえが美味しかった。どのお料理もしっかり手がかけてあって、大満足でした。また行きたいな~。

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June 22, 2004

手段選ばず目障りな環境団体を締め付ける米司法省

米司法省、100年以上眠っていた法律でグリーンピースを告発

 グリーンピースの活動家2人が、ブラジルでのマホガニー材の違法伐採と米国市場での販売に抗議するため、昨年4月、マイアミの約5キロ沖で貨物船に違法に乗船し、「ジョージ・W・ブッシュ大統領は違法な伐採をやめよ」というプラカードを掲げて逮捕され、週末の間拘留されたが、その15ヶ月後、司法省は、1872年の法律に基づいてグリーンピースを刑事告発した……というニュース。

この法律は、売春宿や酒場の人間が船に乗り込み、船員を船から降ろそうとそそのかす行為を防止する目的で制定された。
 1872年といえば、明治政府が太陰暦を廃止して太陽暦に切り替えた年ですよ。一日なのに新月じゃないなんて……と、皆さんがとまどっていた頃。
この法律が適用された例は制定から125年間で今回が初めてだという。この法律について言及している公的文書でさえ、2つしか見つからない
しかも、
司法省が提出した最初の開示書類では、問題の貨物船には違法か否かにかかわらず、マホガニー材は積まれていなかったと記されていた。ところが、貨物船が次の寄港先となったサウスカロライナ州チャールストンの港でマホガニーを降ろした証拠をグリーンピース側が示すと、司法省はマホガニーに関する記述のない新たな書類を提出してきたという。
 もう、手段を選ばず反対意見を封殺しようとしてますね。恣意的な告発って、う~ん、なんかまるでどっかの日本みたい(日本では既に恣意的告発やり放題ですが……怖っ)。
グリーンピースがブッシュ政権から快く思われていないのは周知の事実だ。グリーンピースはブッシュ大統領の農場で抗議運動をした最初の団体として知られる。同団体は2001年、農場からよく見える給水塔から「有害なテキサス人、ジョージ・ブッシュよ。地球を踏み荒らすな」と書いた横断幕を吊り下げた。

 端から見ているとヒステリックな印象を受けることもあるグリーンピースだけど、経済優先で環境が無視されるのが常である現実に対しては、彼らみたいのが居ないとどうにもならないから、時々頼もしく見える。それに案外落としどころはわきまえてる気もする。エコ・テロリズムに走る人々も結構居る欧米では、グリーンピースなんてピースな方だし。
 一応非暴力直接行動を貫いている団体だから、ブッシュ政権がこういうやり方で封殺しようとしても、ま、効果は上がらないだろうなぁ。
「司法省はこれまで、個人を市民的不服従の行為によって告発したことはあるが、組織に対する告発は前例がない」そう。
 グリーンピースの主張ややり方に賛成か反対かとは別に、こういう酷い法適用を認めたら、いつか自分たちの首を絞めることになるっていう想像力が、アメリカにはまだあるでしょう。アメリカは日本と違って、世論の揺り返しがちゃんとある、民主主義の国だからねぇ。

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June 17, 2004

SHINING OVER YOU ―夜に繋がれ―

 君を照らす遙かな月の高みから……という美しい情景は、死後も君を見守っているよ……のような歌詞なんだけど。でも……ドラマチックでありながらこの暗澹たる曲調はいかがなもんです?
 この歌の彼、ぜったい成仏してませんよ?
 夜に繋がれちゃってます。もういっそ、魔物の眷属にでもなっちゃったような勢いの昏さで、世界から隔てられちゃってますよ。「そこからどれくらい流されている?」って言ったって、あなた、もう永遠に隔てられてませんか? 「雨に濡れ絶やさぬように」ってのは、僕のために泣かないでと願ってるんだと思うけど……可哀相なのは彼の方という罠。
 ブランドン・リーの『The Crow』の、彼女が生き残ったヴァージョンみたいな哀切。

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HORIZON ―眼差しこそが世界を形成する―

 ドラマチックなサビが印象的。
 “HELLO”では悲壮感など露ほども見せずに砂漠を突き進んだhydeさんですが、この曲になるとだいぶ消耗してきて、弱気が入ってきた模様。
 「果てしない砂漠の上」で、「揺り籠」や「穏やかな日々」に焦がれ、「君を待ち続けた」けど、ここにはもう「切なさ以外」には何もない(“HELLO”では‘君を待たせてた’から、逆になってる)。「ひび割れた胸」が「痛いよ」と言ってみたり、「ちぎれた想いが叫ん」だり、かなり弱音吐いてます。
 人間、体力消耗すると、体でも心でも、その人の一番“弱いところ”から機能停止していくと言います。この歌の彼の弱いところが、安息への憧れというわけでしょうか。

 でも、たぶんその弱さと同じ場所に、彼が最後まで手放さない、奪えない何かがあるのです。
 彼は「有刺鉄線」引きずってでも、「明日をつかむ」意志を捨てることがない。(立入禁止地帯ですか?脱走してきたんですか?)
 彼の意志は彼の眼差しです。
 タイトルはHORIZONと単数形ですが、歌詞の中ではHorizons rise here in my eyesと、複数形になってるので、こちらは地平線じゃなく、視野・視界という意味。彼の目に視界が……果てしない世界が浮かび上がり、何もかも呑み込んでしまう静寂の呼び声が聞こえる(A sound of silence calls)。でも彼の心には遙かな望みが永遠にあり(a distant hope is mine forevermore)、だから彼は空を見上げ、その眼差しは「最後の一つまで 眩しい矢」となって放たれ、空間を切り裂いて、世界を切り拓いていく。
 地平線の彼方の安息に焦がれながらも、彼は空に向かって眼差しの矢を放つ。それが真実な眼差しである限り、彼は世界を生み出す力を失わない。血を吐くように切ない、真実への意志。

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June 16, 2004

HELLO ―非依存的陰気パワー―

 ラルクでのアレンジが聞いてみたいような、ドライヴ感あふれる一曲。

 陰気パワーも開き直るとこのくらい力強い。決して陽性なエネルギーではないが、死神を引きずってでもグイグイ進んでいく感覚は爽快。
 「偽りだらけの地の果て」で「ようこそ」している彼は、もう最初から自分の置かれた状況を楽しんでいるフシがある。
 天は「じりじりと焼き尽くす」し、「ぎりぎりと死に神に抱」きつかれて、頼みの魂も「底をつ」いて「後が無い」ときた。
 砂漠にいるのか自分の不摂生の荒野にいるのか分かりませんが、彼は恵みの雨なんか望んでない。「つかみ取る輝きで息を吹き返そう」だなんて、追い詰められても挑戦的。
 二度と誰も信じないとか言っちゃってますが(won’t trust no one again)、この開き直り具合から見て、自分以外のモノに依存する気はない、ということでしょう。外側の何ものも、もう彼を傷つけることは出来ない。彼はしっかり「目覚めた」から。
 彼が欲しているのは遍く降り注ぐ恵みの雨ではなく、彼だけに約束された“君”という深い井戸(オアシス)。

砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているから
 というのは『星の王子様』ですが、hydeさんがやるとずいぶん陰気で投げ遣りな王子様になっちゃうでしょうね。

 ともあれ、彼は助けを求めてなんかいない。生還する義務と責任を、彼が一方的に負っているんです。「遠回り」したせいで“君”を待たせてることですし。
 彼を突き進ませている「願い」の強さは、「胸に刺さった声」が今も「響いてる」せい。刺さってるんだからそれは痛みなんだけども、大切な痛み。
 最後に彼が告げる「Hello」は、もちろん君へと辿り着いて最初に言う言葉なんでしょうけど、同時に、目覚めた自分と、ろくでもない地の果ての光景にさえも、挨拶を投げかけているかのよう。

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June 15, 2004

THE CAPE OF STORMS ―詛いとしての人生―

 “私は愛の難破船~”は明菜ちゃんでしたが、hydeさんに至っては難破船どころじゃありません。幽霊船になっちまったですよ、あなた。
 スケール観のある壮大な楽曲に、詛いとしての人生を歌っているように聞こえます。

 舵の利かなくなった船は、導(しるべ)の星さえ見えぬ嵐の海を、失くした愛を求めて永遠に彷徨い続ける。幽霊船、凄い勢いで詛われてます。
 詛いは罪の報い。その罪の色の暗さに、君は決して気付かないだろう、と言ってます。でも、罪の味がとろけるように口に甘いチョコレートのようだと、君は知り尽くしてる、とも言います。束の間の悦びに満たされても、夢には必ず終わりがある、とも。
 詛いと引き替えに犯した彼の罪とは? この根深さの詛いを招くからには、彼は世界を裏切ったのでしょうし、人生を裏切ったのでしょう。その時にはそうとは知らずに、“財宝”に手を伸ばしたのかも知れませんね。
 (この種の詛いを描いた物語ですぐ思い出せるのは、ディネーセンの短編。「イエスを殺せ、バラバを許せ!」という群衆の声で死刑を免れた盗賊バラバは、キリストの死後、どんな上等のワインを飲んでも味がしない……人生そのものが味を失ってしまった……という物語。)

 罪の色の暗さを知らない“君”と、永遠に詛われた彼を別けたのは何なのかも、ちょっと気になるところ。物語作家としては物語の法則に基づいて考えてみるわけです。彼は、罪の本質に気付いてしまった(“君”はまだ罪の表層に酔っているだけ)。罪とは、“財宝”に手を伸ばしたことというよりも……錨(いかり)を断ち切ったことではないかと、私は思うわけです。幽霊船は舵が壊れてますが、も一つ欠けているのが、錨。それを失っているから彷徨い続けなければならない。錨を失ったこと自体が人生への詛いなんだけど、それを断ち切ったのは、たぶん、彼自身なんじゃないかと。それが、世界を、人生を裏切る決定的な罪だったのではないか、と。
 錨は愛に包まれることとか安息とかの比喩ですが、彼はそこに偽りを見てしまったのだと思うのですよ。自分を縛っているのが錨だと。彼は自由が欲しかったんじゃないでしょうか。偽りの錨を断ち切ったら、真実の錨がないことに気付いた。手遅れ。
 そうして、終わりのない詛いとしての人生に、彼は行く先も知らずこぎ出した。……けれど、偽りに気付いてしまった彼に、他にどうしようがあったというのか? 生きることは詛いなのです。真実を求める限り。
 モチーフは彷徨える幽霊船と目新しいものですが、テーマはこれまでも歌ってきた、偽りを滅ぼしてしまえ系の、やや凹んでるヴァージョンかなとも思います。全編英語で歌ってますが、やっぱ、日本語でもこういう歌、歌って欲しいなぁ。

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SHALLOW SLEEP ―夢のエモーション―

 切なく可憐なメロディ。浅い微睡みから覚めた瞬間に、頬に零れる涙。夢のエモーションに心当たりがある人にとっては、これ程切ない歌もなかなかない。

 亡くした恋人の夢と考えるのが自然でしょうね。もう会えない人に夢の中で会い、既に失った人を再び失う目覚め。
 微睡みと目覚めの境界に身を浸したまま、君の存在の確かすぎる余韻と、繰り返された喪失に、声を上げることすら出来ず、時が止まったようで……けれど無慈悲に、目覚めの夜明けに呑まれていく。心はあの遠い日に半ば留まりながら、意識は否応なく目覚めへと曳かれてゆく。その引き裂かれてゆく傷の生々しい痛みを、「淡く揺」れる夢の美しい情景で、ヴェールをかぶせるように歌っている。
 夢と目覚めの合間の一瞬を、みごとに再現した歌。稀有。歌詞の語るエモーションと、メロディが表現するエモーションが完全に一致している点でも、極上の一曲。

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EVERGREEN ―永遠に中断された光景―

 死というものを歌うには、これ程に優しく愛おしまねばならないのだろう。奪われた生の口惜しさに呪いを吐くのではなく、哀しみを哀しみのまま、喪失を喪失のまま、別の何かにすり替えることなく心にとどめるためには、これ程までにひっそりと息をひそめ、慈しまねばならない。

初夏の緑の中で途切れゆく命は、もう年をとることなく、残される者達にとってはいつまでもその緑の葉のまま。
途切れゆく命にとっては、残してゆく幼い若葉が生い育ち、花開き実をつけるさまを見ることは永遠に叶わず、幼い葉はその小さな緑のまま。
そんな永遠の初夏の緑。

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瞳の住人 ―僕の知る僕自身より…―

 甘いメロディからあの高音へと駈け昇るサビへの展開が魅力的な一曲。

 歌詞はオーソドックスなラヴソングのようですが、「君」は女なのか我が子なのか。
 ともあれ、恋に夢中になったことがあれば心当たりがあるでしょう、相手の目の中に自分が映ってる、見たこともない幸せそうな笑顔で。君の中にいる僕の方が、僕の知る僕自身より、ずいぶんとましな人間なんじゃないか……と思う時がある。「なぜ僕はここに居るんだろう」という疑問は、君の瞳から離れてもまだ息をしていることの不思議と、君と今此処に在ることの不思議。
 だが、各コーラスの最後、「あの太陽のようになれたなら」と、「時を止めて欲しい 永遠に」の2つのフレーズは、メロディとそれを吐き出すような歌い方からして、反語表現であると考えてみましょう。太陽にはなれないし、永遠には辿り着けない。スタティックな試みが敗れ去ることは分かっていながら、それでも願わずにいられない。刹那から永遠を願う。
 反語的に否定されないのは、最後の「花のもとへ」の繰り返し。永遠は無理でもせめて次の春までは、というんでもないでしょうが、君の不安を消すために、僕は太陽になることも、時を止めることも出来ないけど、「鮮やかな季節」の「花のもと」へと君を連れ出して、一緒に永遠を夢見よう……ダイナミックなその一瞬の情景の中で。

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Coming Closer ―張り詰めて運命に問う―

 冷たく張り詰めた、指先まで痛いほどの緊張感、みたいなインスピレーションの源泉が、たぶん『fate』と凄く近くて、表現の別の可能性を展開した曲のように思える。

 たくさんの孤独を歌ってきたhydeさんですが、今回は、“君の孤独を救えない”ことの焦燥感、己の無力さへの身の置き所無さ。
 時は指の隙間からあまりにも早く流れ落ち、「眠りの時を知ってる」かのような君を、「この手は癒せな」くて、救い出すことが出来なくて、「為す術もなく」「立ち尽くす」。
 「降り注ぐ光を浴び」「風に揺られて」、高く高く「手を伸ばす」君は、どこか樹木のようで、自然霊のイメージを見せる。「母なる君」だからなのか……?

 『fate』は暗殺者か兵士の物語のようで、凍てつく大地で「何が愛なのか、何が嘘なのか」分からないまま「ただ君だけが恋しい」と歌っていた彼の孤独。この『Coming Closer』では、やっと見つけた君が、独り滅んでいくのを止められない哀しみが彼を締め付ける。
 たたみかけるサビのテンションの高さ。運命を知る君の孤独が、そんなにも彼には哀しい。世界の果てで愛を叫んでる歌。

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READY STEADY GO ―大丈夫、走り続けてる―

 ラルク強化週間と言うことで、引き続きhyde氏的懐疑を取り上げて見ませう。

 ラルクの活動再開を告げるにふさわしい勢いと加速度感に、饒舌なアレンジ。なんと楽しそうなことか。“READY STEADY GO”とは、“位置について、よーい、ドン”ですね、はい、誰にも止められないですね。フライングだろうとコース外れようと知ったこっちゃない。って言うか、そもそもスターターの声なんか聞いちゃいない。自分たちで掛け声かけて、もう奴らは地平線の向こうへと走り出しちゃったんです。

 走り続けるには身軽で自由でなきゃいけない。「あてにならない地図」は焼き捨て、「数え切れない傷」抱え込みながら、「埋もれた真実」を「つかみ取」るために、誰にも「魂までは奪わせない」。自分の直感だけ信じて走れ。
 こんなとこでしがらんでる暇はないのです。だって詩神(ミューズ)は丘の向こうで呼んでいるんだもの。

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Spirit dreams inside ―渇いて夢見る―

 80年代のDuran Duranを思い起こさせる、キャッチーで完成度の高い(仄かに陰気な)疾走感あふれる一曲。そしてアルバムSMILEの中では、たぶん一番、夜の半球に近い歌詞。

悪夢から目覚めた 昼間でもそれがまとわりつく ゆっくりとそれがボクを引き裂いていく

遠い愛の夢 ボクは彷徨う衛星なんだ

荒れ地のどこかで 君が笑いかけている ボクの夢から来たヴィジョン すべては変わるのかな?

痛みを振り捨てて 君の光で導いて

太陽に向かって 哀しみを置き去りに 渇いた海を越えて……

「太陽に向かって(heading for the sun)」なんて色白のhydeさんに言われちゃった日にゃあ……と思ってると、あれまぁ、海を干上がらせるほどの太陽ですか!
痛みやら哀しみやらと一緒に海まで干上がらせてしまうとなると、目指すべき太陽は……「浸食」の灼けつく太陽に、実は近い。でも今度は正気を保っている、が故に余計にキツい。焼き尽くすものでありながら目指して進むものでもある……太陽は、両義的。
海も干上がるような不毛の大地で太陽に向かって歩くのは、希望があるからではなく、意志があるから。どこかに君がいると信じているから。(ユリアさまを捜すケンシロウのようだ、とは言わないでおこう)

干上がった不毛の世界は彼の心。そんなにも渇いているのは、「時の外側へと空回りしてる(spinning out of time)」疎外感のせい? 誰かに繋ぎ止めて欲しがっている、泣き声に気付いて欲しいと。なぜ此処にいるのか分からず、迷子になった理由も分からない。愛の所在を知らないから。
それでも歩き続ける意志だけがある。
誰にも出会えない荒れ地で、太陽に向かって、君の光を目指して行く先は、心の深いところ(deep inside I go)。魂が夢見ているのは彼方ではなく、“内側”。
では、太陽は彼の欲望?それとも真実?……その両方を指す両義性?

「遠い愛の夢」そのものが「悪夢」であるような渇いた世界。
でも『接吻』で、「もう僕は二度と帰らない」と言ったのは、そんな渇いた孤独だったのでは?
ああ、それとも、二度と帰らないという意志が、彼を歩き続けさせているのかな?
そんな夢にさえ気付かないでいれば、無感覚に人の群れの中で生きていけるけど、気付いて、目覚めて、一人でも、ずっと君へと歩き続ける。
たとえ世界が彼を祝福しなくても、彼は意地でも世界を祝福してやる。世界が彼を祝福するまで、絶対に彼は世界から去ってやらない。そんな意志。
……凄くいいんだよね。なぜ日本語で歌わないのだろう。

永遠を誓わずに願うくらいの節操は残っているものの、「この恋を君に、永遠を捧げ」ちゃってる(『永遠』)今日この頃のhydeさんですが、世界と(君と)出会うことの困難さを、より成熟した意志で歌っていく可能性の一つが、この曲の歌詞には現れているような気がします。

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June 13, 2004

ラルク@大阪城ホール

 行って参りました、ラルク@大阪城ホール。
 急遽“参加席”とやらの発売情報が入り、立ち見より悪い席との覚悟で行ってみると、何のことはない、ステージ脇のスタンド席。立ち見かと思っていたので、コレはラッキー。ステージ近いじゃん♪
 ほとんどPAの真横とあって、さすがに音が割れちゃって、テッチャンのエロいベースラインを堪能出来なかったのはやはり残念。それでも、前回のドームの時みたいに“ベースラインとバスドラが半周遅れで重なって絶妙の気持ち悪さ”ということはありませんでした。

 ラルクはこれまでお台場の巨大野外とドームでしか聞いたことなかったんだけど、ホールクラスのハコの大きさだと、あ、この人たちライヴでも上手いんだ、というのが遅ればせながら初めて分かりました。特にユッキー。もしかして物凄く上手いドラマーだったの? アルバムで聞いてる限りは「サクラの陰気なドラムの方が好き…」くらいにしか思ってなかったんだけど、今日はビックリしました。年甲斐もなく踊らされてしまったのは、たぶんユッキーのドラムのせい。私はドラムのデフォルトがカール・パーマーなので、オカズが多いほど好きという程度でしか聞こえないんだけど、今日のユッキーはそそりました。テッチャンのプログレちっくなベースラインは元から好きなんだけど、2人で作り出すリズムパターンというのか、ヴァリエーションが豊富で、飽きさせないステージ。それにホールで聞くと、改めて楽曲自体の良さも感じます。アレンジもそれぞれの曲に個性があって、ホント楽しい。

 そして……hydeさん。前に聞いたときは、ライヴではそれ程でもないんだな~と思ってたんだけど、今日はトンでもございませんでしたよ、奥さん。前半で「瞳の住人」キターッと思ってハラハラして聞いてると、あの高音を軽々歌ってる。その後もっと高くなるところも、完っ璧。声の調子いいなーと思いつつ、ハッと気付いたわけです。もしかしてこのオッサン、歌上手くなってません? ライヴのノリを加えつつ、スタジオ録音のクオリティーで歌ってる……まるで沢田研二サマのようではありませんか。男性ヴォーカルは、30代半ばからが声のピーク、歌唱力のピークはさらにもう少し後、ということなのだろーか。(ジュリーの時にはそのピークをリアルタイムで聞き損ねてしまった、痛恨っ。hydeさんのピークは聞き逃さないようにせねば。実はSMILEもあんまり聞き込んでなかったんだけど、ちゃんと聞きます。)
(最近の曲は、これで歌詞が面白ければ文句なしなんだけど……歌詞の逝きっぷりのピークは、Heartとその後くらいかなぁ。ちょっと毒気が抜けて落ち着いちゃったよね)

 そもそもラルクではhydeさんの声は立派な楽器の一つだと思うんだけど、その楽器ぶりに磨きがかかってます。彼以外が歌うと、つまんなくなっちゃうだろうなーって曲、たくさんある。
 ファルセットが美事なのはもちろんなんだけど(んにしても「瞳の住人」のあの高音は神!)、中音域の表情の付け方がスゴイと思うのよ。金属的な硬質の声と深みのある声との使い分けとか、伸ばすときの母音の種類の多さとか、技術の確かさであるには違いないんだけど、それが何とも……突き放すような、拗ねるような、無邪気なような……危ういスタンス(世界への?自己への?)を感じさせて、ほんと大好き。ファルセット一つ、シャウト一つにも必然性がある、異様な説得力。ちょっと神がかった領域に近づきつつあるような表現力でした。歌詞以上、サウンド以上の“何か”を表現してしまっている(言ってしまえばそれはspiritなんだけど)。お能の笛方でお一人、そういう“何か”を表現してしまう方を見て衝撃受けたのを思い出します。

 あ、あと、メンバーがパートを総取っ替えするP’unk~en~Cielもサイコー! Kenちゃん一生懸命ドラム叩く叩く、ユッキー真っ剣な顔でベース弾く弾く。Punk Milky Way楽しかったよーっ! パンク君が代なんかやってくれたらスゲェんだけどなー、ラルクはやんないよねぇ。

 席に全然期待せずに行っただけに、大満足のステージでございました♪

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June 11, 2004

夏に向けてボディを磨く!

 合成洗剤(ボディソープや化粧石けん)を使うのをやめてお肌の調子は良くなりましたが、純石けんといえども体を毎日ごしごしやるのには抵抗があるなぁと感じていた今日この頃、たんぽぽはるかさんのサイトで面白い記事を見つけました。
 身体を洗う時にせっけんを使わずに手でこすることのすゝめ……です。

 皮脂の分泌が盛んなお年頃でもないし、なるほど、いっぺんやってみるか、と思ってやってみました。
 すると……ををっ、垢だぁっ! なんにもつけずに手のひらで身体をこすると、垢が出るのがよく分かる。身体の部分によって垢の出方が違う!面白いっ!
 こりゃイイや、と思ってごしごし体中こすってる内に、上半身終了の頃には腕がだるくなってきた。筋肉なさ過ぎだね。それでもガンバッテお尻も腿もごしごし、膝の裏もごしごし、足首もごしごし。足の裏……きゃー、たくさん垢が出るーっ!
 垢擦りなんか行かなくても、自分でツルリン肌に出来ちゃうじゃない。コレは爽快。

 と、そんな初体験でしたが……難点はやはり、腕の筋力をつけないことには、毎日は無理ぽ、ってとこ。
 翌日からはタオルに少量の石けんをつけて、泡を立てることではなく垢を落とすことに主眼をおいて身体を洗うようにしました。
 今日はまた気が向いたんで、手のひらでごしごしやってきたところです。週に一回くらいはコレにしようかな。
 今日もやっぱり途中で腕がだるくなった……。侍女が2、3人がかりで寝そべるアタクシの身体をごしごしやってくれるんなら、毎日でもいいんだけどねぇ。せめて背中を……う~ん、ダンナにやらせるかな。思案中。

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June 09, 2004

池田小貴族?

 不謹慎なんで取り上げるのやめようかと思ったんだが……またYahoo!ニューストピックスの13文字以内小見出しネタ。

「池田小遺族 教室で慰霊できず」

 なんですとー!?池田貴族の子供が池田小貴族という芸名で父の跡を継いでたのか?しかも霊能力不足で慰霊に失敗したっ?……と、思ってしまった。
 よく読みなさい、「池田 小貴族」ではなく「池田小 遺族」。キゾクじゃなくてイゾクだよ。
 フルタイトルは『一部遺族教室で慰霊できず 児童殺傷事件、学校が謝罪』でした。

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良心的国歌斉唱拒否

 卒業式・入学式などでの国歌斉唱強制は、相当締め付けが厳しくなってるみたい。

<東京都>生徒への君が代斉唱徹底を職務命令に 教育長方針

 入学式や卒業式での君が代斉唱をめぐり、東京都の横山洋吉教育長は8日の都議会で、児童や生徒も起立して歌うことを教職員が指導するよう求める職務命令を、都立高校などの各校長に出させる考えを示した。違反した場合は懲戒処分する方針。これまでは教職員本人が起立して歌うよう職務命令を出させていたが、児童・生徒にも徹底させるために、さらに指導強化を図る考えだ。
 都教委は教職員が国旗に向かって起立し、君が代を歌うよう命じる通達を昨年10月に出し、今春、通達に基づいた校長の職務命令に違反したとして238人を処分、生徒が起立しなかった学校の67人を指導が不適切だったとして「注意」や「指導」をしている。
 横山教育長は「教員は法令や学習指導要領に基づき、児童、生徒に国旗、国歌の意義を理解させ、尊重させる態度を育成する責務がある」と指摘した。【大槻英二】(毎日新聞)
[6月9日0時9分更新

 ニュース23で見たけど、君が代ハンターイ!っていうニッキョーソ以外でも、君が代を異常なまでに「強制」することそのものに反対して起立拒否する教員も現れ始めてるらしい。取材をうけてたのは武道やってて普段は日の丸に向かって礼してる初老教員だった。
 歌を歌うことを強制されるなんて、いくら国歌でも気持ち悪いよ。生徒が起立斉唱しないと担当教員が処分されるなんてところまで来ていると聞けば、やっぱ異常なんじゃない?と思うわけだが。成人式の子供みたいに騒ぐわけじゃなく、起立斉唱を拒否してるだけでしょ?
 サッカーの代表試合でなら君が代を歌う人でも、自分の卒業式や入学式で「強制」されるのはイヤだと思うかも知れない。
 私が学校通ってる年だったら……起立しないだろうなぁ。担任が処分されると言われたって、実際にセンセがノイローゼにでもならない限り、起立してくれと頼まれても拝まれても、やらなかっただろうなぁ。若い時って、無慈悲だし。センセ気の毒だなぁ。

 近代国家の中でも良心的兵役拒否というものが認められてきたんだから、この際、良心的国歌斉唱拒否の権利を求めて教員の人たちもがんばってみたらいいのに。強制という流れの強さは、生理的に危険を感じますよ。教師が締め付けられたら、子供に悪影響が出ないはずないんだし。
 とりあえず、君が代が是か非かと言うことを問題にするんじゃなく、異常な締め付け・強制が教育現場を萎縮させ機能不全にしつつあることに対する抗議として、憂慮する教職員ネットワークでも作ってしまうといいね。
 法廷での判断を仰ぐ作戦も並行して進めるのが市民的抵抗の常道。不起立を違法とみなす法的根拠より、より上位の法……憲法とか……に訴えて、良心的職務命令拒否の権利を法廷に問うわけですね。
 ネットで署名集めも出来るでしょう。キャッチーなコピーでも作って活動を広めていくといいでしょう。「歌いたいとき、歌うから」なんてどう?
 非暴力による市民的抵抗については、以前書いた記事もどうぞ。

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June 05, 2004

マルコス ここは世界の片隅なのか

 このところのマイブーム、非暴力と仮面ライダークウガに絡んで思い出したので、だいぶ前に読んだ本なんだけど。

『マルコス・ここは世界の片隅なのか―グローバリゼーションをめぐる対話』イグナシオ・ラモネ 現代企画室 2002年

 メキシコ チアパス州は、天然ガスと石油が採れる豊かな土地だが、そこに住む先住民たちは「世界で最も見捨てられた人々」であり、独自の歴史と文化と言語と価値観を持っていながら、数百年にわたって、自らを「否応なく消え去っていくものとして見るよう強制」されてきた。
 1994年1月1日、サパティスタ民族解放軍を名乗る先住民の蜂起があり、チアパス州の4都市を占拠した。このときから、「マルコス副司令官」という覆面のスポークスマンが、主にネットを通じて世界に向けて発言を始める。先住民の権利主張などという単純なことではなく、人々の運命を握るようになった市場原理主義、グローバリゼーションへの彼の鋭い批判は、世界中のNGO、市民団体、著名な知識人を含む個人との連帯を生み出した。
 この「サイバー・ゲリラ」の効果はあまりに絶大で、蜂起から11日後には「マルコスが武器を取るという選択を最終的に放棄するほど」だった。

 見えざる者達として扱われてきた先住民のスポークスマンが覆面をかぶるという象徴性。ゲリラでありながらテロ襲撃も、暗殺も、爆弾を仕掛けることもなく、分離独立を要求することなく、逆にチアパスとインディオがメキシコ社会により上手く組み入れられることを要求する、時に非暴力的ですらある「軍隊」(彼らは軍隊として認められるためのすべての国際規約を尊重して、識別可能な軍服と階級の記章を着けている)。
 マルコス副司令が語る彼らの目的は「民主主義と正義と自由を要求するためにもはや地下にもぐったり武装したりする必要がなくなる」ことであり、「われわれは消滅するために闘っている」のだという。「われわれは、いつの日か兵士がもはや必要でなくなるようにするために兵士になった戦闘員なのです。われわれは、もう兵士がいなくなるようにするための兵士なのです」。

 ……この本を思い出したのは、仮面ライダークウガの最終回で、主人公の妹が保育園の子供に言った台詞からだった。「4号は本当はいちゃいけないと思ってるの。4号がいなくていい世の中が、一番だと思うんだ」
 子供向け特撮ヒーローもので、子供に向かってヒーローがいちゃいけないと語りかける場面を最終回に持ってくるところが、スゴイと思いました。(他にも凄いこと言わせるなと思ったのは、「悩まないで、もっと楽しいモノを買って、楽しいことにお金を使え」ってテレビが言っているような気がする、という台詞)
 で、まさに「いなくなるための軍隊」であるサパティスタのことがすぐに思い浮かんだわけです。

 「いなくなるための軍隊」というのは、非暴力論としても興味深いし、非暴力的な紛争解決の仕組み作り、非暴力的な社会の構築に向けても、考えてみるべき問題だと思います。

 さらに、「自分が最後の一人でありたい」という、消滅に向かうものとしての自己認識(存在がほとんど祈りみたい!)は、とても今日的な英雄像だなとも思うのです。最後の兵士、最後の放射性廃棄物管理人、最後のPCB処理技術者……。いらないものが多すぎる世界だから、たくさんの汚染を垂れ流した文明だから、その始末をつけるための最後の一人でありたいという、これまでと逆の英雄像と、切ない希望に満ちた悲劇が、可能なんじゃないかな。

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フレンチ食ってきました

 こないだビストロが閉店したと思ったら、同じ場所に先月からまたフレンチのお店がオープンしました。
 新町錦角の「ガスパール」。美味しかったー。もういっぱいです、腹の皮つっぱってます。気付かずに食後のチーズまで堪能してしまったが、もしかして量はやや多め?
 店内20席。前のビストロの時とレイアウトはかわってない感じ。夜はオードブル2品とメイン1品のコースが3700円、メイン2品で4900円、ロブスターのお任せコースで6000円。私は3700円のコースに800円プラスで子鳩のロースト。ダンナは4900円のコースで海老のパイ包み焼きと黒豚のコンフィavecレンズ豆の煮込みを頼みました。オードブルはフォアグラのポワレとチーズリゾットを2人とも、あとそれぞれオマールのスープと、カニとキャビアのコンソメジュレ カリフラワー風味。パン、デザート、コーヒーの他にアミューズとソルベも付いていました。
 メニューではメインより前菜の品数が多かったけど、選ぶ楽しみがあって嬉し~い感じ。ホロホロ鳥やウサギが冷前菜にしかないので、選ぶときに結構迷いました。「今度はこれも食べたい」って思わされます。
 ワインリストはまだできあがってなかったけど、予算と好みを伝えると美味しいワインを出してくれました。サービスがバイトちゃんじゃなくてちゃんと分かってる人であることは重要。オーダー終えるまでに何度も厨房と往復するようなサービスをおいとく店が多いからね。
 お料理は繊細というよりハッキリしてて、素材感があって、一皿一皿が印象に残る感じです。たとえばフォアグラのポアレなら、「回りのカリカリに焼けたとこが美味しい→あ、いいお塩使ってる→あ、コショウも美味しいのだ→チーズリゾットと一緒に食べるとまた美味しい」って感じで楽しめてしまうハッキリした料理。コストパフォーマンスはかなりいいのでは。巨漢でジャージ姿のシェフが、見るからに食いしんぼそうなのも好印象。
 だだ一つ、ミキサーの音が客席の方に響いてくるのが、前のビストロの時も気になったんだけど、店の構造上、仕方ないのかな。
 レ・シャンドールに行くほどでもないって時に、気軽に立ち寄れる便利なお店が出来て嬉しいですわ。

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June 02, 2004

京都の人、寿命長すぎ!

昨夜ダンナに言われて2ちゃんのトップページを久々に見てみて、爆笑したところでした。

2ちゃんねる、著作権を侵害中?  ネット掲示板「2ちゃんねる」のトップページの画像がこのほど、「著作権侵害中」という文字入りに差し替えられた。「ただいま超著作権侵害中」という“PR”付きだ。  発端は、京都新聞の連載「Winnyの衝撃」の第5回「匿名ネットと著作権 京都の文化財、デジタル化で標的に」。文中に「高山寺(右京区)の鳥獣戯画や、建仁寺(東山区)の風神雷神図など著名な絵画は、陶器の図柄などに無断転用される例が後を絶たない」とある。  2ちゃんねるのトップページといえば鳥獣戯画。「ただいま、猛烈な勢いで著作権侵害中です。」のページでは、同記事の引用と共に、名画の写真は単なる複製であるため著作権は発生しないが画家の著作権は働くという見解と、著作権は著作者の死後50年までとする著作権法第51条を掲載した。  その上で「京都の人、寿命長すぎ!」と指摘している。  鳥獣戯画は鳥羽僧正の作と伝えられ、制作年代は平安後期から鎌倉期とされる。 http://www.itmedia.co.jp/news/ (ITmediaニュース) [6月2日11時21分更新]


平安時代の絵画や図案に著作権って、あり得るのか?って、記者やデスクは疑問を持たなかったのかな。ちゃんと調べた上で、根拠を持って記事を載せてるのかな。(記事からはその根拠は見えてこないけど)
winny作者の47氏を逮捕してるのが京都地検だという関係からか、京都新聞はwinnyの件に専用ページ作って力を入れてるんだよね。
記事の内容はだいたい冷静で、私は評価してたんだけど。
47氏もさ、一人でwinnyしょいこまないで、何百人もの名無しさんと一緒に完全オープンソースで作っとけば、京都地検も二の足踏んだかも知れないよね。

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仮面ライダークウガ 拳の痛み

 ここ一週間以上、「仮面ライダークウガ」を見るのに忙しくて他のことが手につかなかったのは、みんなには内緒だよ。私にとっては、るろ剣トライガンRED☆SHADOWに続く非暴力もの。

 知っている人にとっては今更だが、特撮ヒーローものと馬鹿にするなかれ。クウガは「子供だましはしない」というスタッフ&キャストのプロとしての誇りと愛情あふれる、骨太なドラマに仕上がってるのだっ。未就学児向け・おもちゃ屋の宣伝番組という限界を上手くかわし、未確認生命体(昔で言うところの怪人ね)との戦いをリアルな設定で描いて、たくさんの大人たちも虜にした番組、らしい。変身の時だけベルトが現れるのは何故か、敵は何故一体ずつしか襲ってこないのか……これら長年の謎に答えを出しただけでも、たいしたもんじゃあ~りませんか。

 主人公は脳天気で飄々とした、ちょっと見は頼りない青年、五代雄介。古代遺跡から蘇った未確認生命体が人間を襲い始めたとき、主人公 雄介は、遺跡から発見されたベルトをはめて変身し、クウガとなって戦う力を得る。警察はクウガも未確認生命体第4号と呼び、当初は射殺対象だった。クウガに命を救われた一条刑事を通じて、やがて警察も未確認生命体と戦う協力者としてクウガを認めるようになるが、上層部の硬直した反応なども描かれる。一年間という長いスパンが幸いして、レギュラーキャラそれぞれにスポットを当てるエピソードがあり、作品世界がとても生き生きしている。

 雄介は最初に変身した後、早くも、自分の拳を見ながら「慣れそうもないな、あの感覚」と言い、ヒロインに「五代くんでも中途半端な気持ちになることなんてあるんだ?」と訊かれたとき、再び拳をそっと握りながら「あるさ、そりゃあ…」と呟いている。拳をふるうことを躊躇するというヒーロー像は、非暴力オタクとしては嬉しい限り。
 その後も、雄介の妹が「もう、戦うの平気になっちゃった?」と訊ねるシーンがあり、雄介は彼女の不安に対し、「お前はなんで(保育園の)先生やってるの?……誰かの笑顔のためだろ?俺も同じだよ」と応える。また、未確認生命体の強力化に伴いクウガもパワーアップした後、「俺ももうこれ以上強くならなくていいやって感じ」と言うのからも分かる通り、雄介には戦闘マニア的性向は一切ない(剣心が人斬りの本性を内に抱えているのと対照的)。こういうヒーロー像を構築するのは骨の折れる仕事だったと思うが、脚本の完成度は概して高水準で、第1話から最終話まで、メッセージは首尾一貫している。

 決して熱血ではなく、崇高なシリアスさとは無縁で、むしろ天然の軽さと脳天気でもって、雄介は「これ以上、誰かの涙を見たくない」、「みんなに笑顔でいて欲しいんです」と、最後まで飄々とやせ我慢を貫く。
 自己犠牲をやせ我慢として描くのは、私としてはなかなか新鮮だった。自己犠牲だと客観的価値を押しつける感があって、自己満足だ偽善だとの反発を買いやすいが、やせ我慢なら好きでやってるだけだから反発されにくいし、キャラの作り方によっては共感が広がりやすい。自己犠牲ってのは「ついうっかり」しちゃうか、そうじゃなきゃ内心泣きながらやせ我慢するのが自然なのかも。

 そんな雄介が、終盤に向けて一度だけ、怒りと憎しみのままに敵を殴り倒すエピソードがあった。「未確認」により脳内に針を仕込まれた高校生たちが、4日目に次々死んでいく……迫り来る死の恐怖におびえる少年たちを目の前で見た雄介は、犯人である未確認をめちゃめちゃに殴り続ける。カットバックで挿入されるのは、保育園の男の子たちが、雄介に言われたことを受け止めて仲直りするシーン。その鮮やかで辛い対比。
 ラスボス戦に向けますます強力になる未確認生命体に対し、雄介も更なるパワーアップを迫られるが、周りの人々は彼が「戦うためだけの生物兵器」になってしまうのではないか、彼が彼でなくなってしまうのではないかと不安を感じる。古代遺跡の碑文の研究から、優しさや慈しみの心をなくしたとき、クウガは「凄まじき戦士」となり闇をもたらす者になるとわかる。滅入る展開の中、雄介は「やっぱりあの時なりかけたんだ」と、憎しみのまま戦ったときのことを思い返し、「でも、もうそれが分かったから、絶対大丈夫」と明るく笑う。雄介の楽天性、肩の力の抜け具合に、誰もが救われてゆく。

 科警研で働くバツイチ子持ちの研究員が、未確認生命体を倒すためとはいえ「私たち、こんな物まで作っちゃって…」と、次々に強力な武器を開発してきたことに疑問を抱くシーンもあった。雄介はそんな彼女に、「大丈夫、第0号を倒したら、次に作るのは、お子さんと一緒にホットケーキですよ」と言って励ます(軍事産業ではなく警察機構の中にいる人だから、あながちその場限りの慰めではない)。

 雄介は最後、憎しみの力ではなく「みんなの笑顔を守りたい」という心一つで究極の力を手に入れるのだが、ラスボスである未確認生命体第0号との決戦は、結局最後には変身も解けてしまい、生身同士の殴り合いとして描かれる。人を傷つけることが楽しくて仕方ない第0号は天使のような笑顔で雄介を殴り、みんなの笑顔を守りたい雄介は泣きながら第0号を殴る。このシーンは暴力性というものを抉り出していて出色の出来ではないでしょうか。
 最終話は、変身したクウガも、バトルシーンそのものも全く出てこないという掟破り。全編が、未確認生命体がいなくなった三ヶ月後、それぞれの登場人物が雄介への思いを口にする後日談となっている。そして最後の最後、どうやら南米で放浪しているらしい雄介は、子供たちの諍いを笑顔に変える相変わらずな面を見せながらも、しかし彼自身の顔には、あの底抜けの笑顔は戻っていない。砂浜で寝そべりながら拳の感触を思い出している描写もあり、戦うことで負ってしまった傷の深さを感じさせる。広い青空の下で、何かを吹っ切るように歩き出す雄介の後ろ姿。
 ヒーローは孤独なもんだし、シェーンの昔から戦いが終わったら去って行くもんだけど、たくさんの絆が描かれたドラマであるだけに、このラストシーンはかなり切ない。その切なさが、作品のテーマを余韻たっぷりに伝えてくれている。

 ……が、しかし、切なさをより大きくするためには、第0号との戦いで欲しかった台詞がある。
 未確認生命体は生物学的には人間と同じで、ベルトによって変身する力を得た雄介クウガとは、「心」以外はまるで同じだと終盤で分かってくる。もっとも強大な力を持つ第0号を倒すために「凄まじき戦士」となった雄介の体は、変身能力のためにかなり変化してしまっている。
 ならば……第0号に「キミを理解できるのは、ボクだけだよ」と言わせたかった。「人間でいようとするから苦しいんだよ」とか「もう彼らのところには帰れないんだろう」とか「苦しみを終わらせてあげるよ」とか、なんなら「一緒に、無に帰ろう」とか、ダメ押しの揺さぶりをして欲しかったなぁ。ちょっと少女漫画チックかなぁ。

 ともあれ、正義の鉄拳うけてみろ!なヒーローではなく、みんなの笑顔を守りたいがためであっても、拳をふるうことは苦しいと思っているヒーローを見て育ったら、子供にとって影響は結構大きいかもなぁなんて思います。……って言うか、リアルタイムで視聴していたら、父母の方が最後の2回は号泣しちゃってたかも。泣いてる父母の姿を見ることも含めて、ちびっ子の心に何かがずっと引っかかってくれたならいいんだけどな。

 さんざんネタバレ書いといて言うのもなんですが、レンタル屋さんでキッズビデオのコーナーにあれば安く借りられますし、騙されたと思っていっぺん見てみません?

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June 01, 2004

夏至の夜、電気を消して蝋燭を灯す

 去年もやってました「1000000人のキャンドルナイト」
 一年に一度、夏至の夜に、電気を消し、ろうそくの明かりで時を過ごしてみようという呼びかけです。今年は6月19、20、21日の、夜8時から10時までの2時間です。
 フローティングキャンドルを浮かべたお風呂でリラックスタイムを楽しむも良し、ろうそくの明かりでディナーを楽しむも良し、本を読んでみるも良し、そっと衣装ダンスの奥をのぞき込んでみるも良し、怪談で百物語をやるも良し。

ある人は省エネを、ある人は平和を、 ある人は世界のいろいろな場所で生きる人びとのことを思いながら。

プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。

それは人間の自由と多様性を思いおこすことであり、
文明のもっと大きな可能性を発見する
プロセスであると私たちは考えます。

一人ひとりがそれぞれの考えを胸に、
ただ2時間、でんきを消すことで、
ゆるやかにつながって「くらやみのウェーブ」を
地球上にひろげていきませんか。
(呼びかけ文 より)

 電気を消す……たったそれだけのことで、きっときっと特別な時間が体験できちゃうってのは、なかなか目の付け所がいいと思います。ろうそくの明かりを灯したら、その後は、各自思い思いに。肩の力の抜け具合もいいんじゃないでしょうか。何を考えるかも、どんな答えを出すのかも、その人次第。モノを買う、消費する、以外に、生き方の楽しみを見つけられたら、いいよね。
 結論を押しつけても、誰も共感なんかしないんだから。

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