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November 23, 2002

物語は和解する

 京都新聞にコラムを書いたことは、6月の近況でもお知らせしましたが、京都以外の方の目に触れる機会はないかと思いまして……遅くなりましたが、ここでアップすることにしました。
 他の執筆者の方でも、ご自分のサイトに掲載してらっしゃるみたいなので、たぶん問題無いのでせう。
 1200字の中にいろいろ詰め込んじゃって、単純化する代わりに少~し嘘になってるとこがありますね……物語とファンタジーの区別や、物語と現実の関係を、わざと曖昧にしてるとこがありますから。
 お暇ならご一読を。

京都新聞 2002年6月26日 文化面(18面) シリーズ名「双曲線」
  物語[ファンタジー]は和解する   ――裏切りや失敗は、世界から人への祝福なのだ

 人というものがある限り、物語がなくなることはない。ちょうど歌や踊りと同じように、物語は人が人としての精神を持ったときから人と共にあり、物語が滅ぶとき、人もまた滅びてしまうだろう。
 京都という町は物語に向いているかも知れない。現在のファンタジー・ブームの中では、京都はファンタジックな町ですらある。平安以前の痕跡と明治維新の史跡が肩を並べ、人間以外の異界の伝説さえそこここに名を残し、幾重にも時代と世界とが折り重なっている。この町自体が重層的な世界であり、それはファンタジーの世界観にふさわしい。安倍清明すら歴史上の人物というよりは一種のファンタジーとして若者たちを魅きつけているのではないか。
 私たちはずいぶん前から、科学や唯物論が、私たちの本当に知りたいことを説明してはくれないと気付き始めていた。物理法則と心理学に従い個の内面へ向かう小説のリアリズムが、どうやら応えてこなかった何かが、ファンタジーにはあるのかも知れない。ファンタジーを求める心を現実逃避だと切って捨てることはたやすい。だがリアリズムが見捨てる架空の世界は、この現実をはたから見る眼差しにもなりうる。妖精族の長老の目でこの現実を見るとき、私たちは居ながらにしてもう一つの世界の住人となる。なぜ人間たちはそんなことをする? なぜそうではなく、こうは生きられない? けれどその問いに答えるべきは、人としての私たち自身にほかならない。現実に問い掛け、問い返す、もう一つの世界からの眼差しは、それ自体がこの閉ざされた世界の出口であり、同時に、再び人としてこの世界と出会う入口でもある。
 リアリズム小説であれファンタジーであれ、すべてが作者の意図によって作り上げられていることにかわりはない。にもかかわらず、良質の物語はいつも、読者だけでなく作者をも裏切る。そして、計画された通り、意図された通りの表面が破れたところで、世界の秘密がふと顔を覗かす――物語の中であれ、現実であれ。そんな破れ目でこそ、人は他者と出逢い、世界と出会うのではないか。であればこそ、裏切りや失敗は、世界から人への祝福なのだ。世界を裏切り、世界に裏切られた物語の主人公は、ついに風の中で知ることになる――この風は私であり、風の中で揺れる草は私であり、この大地も、空も、初めから私だったのだ…と。そうしてファンタジーは密やかに、運命や世界との和解を紡ぐ。繰り返し、幾度でも。人が世界の中に在るために。
 子供の頃、私は今よりもっとたくさん、世界の秘密を知っていたと思う。ただ傲慢で、慈しまなければ失ってしまうということを知らなかった。だからもう一度探さねばならないのだ。世界の秘密を囁きかける、私にだけ見える密やかな徴(しるし)を。真夜中の洋服ダンスに、猫の欠伸の中に。細い細い二日月の明かりの下で。

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