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November 2002

November 23, 2002

LOVE FLIES ―醒めて見る夢―

 何がどうというドラマも内容もない。歌詞は抽象的で断片的。
 でも、ハッキリと‘ある何か’が伝わってくる不思議な歌。

 昼の空……突然の天気雨の中で、溢れるような色彩と光にヤラレてしまった感覚。
 でも、溺れない。彼は恐ろしく醒めている。

 手の届かない空、を、見上げた瞬間、光に包まれて主観が分裂する。
 届かないはずの空を羽ばたいている、或いは、空そのものになってしまっている自分と、やはり地上でそれを見上げ、断絶を知っている自分と。
 夢の右側と、真実の左側。
 魂の右側と、生の左側。
 断絶。

 「Look at the skies」と歌うとき、空は複数形になっている。ということは、単なる空ではなく、天(天国)を意味しているのでしょうし、コロコロと変わる空模様のイメージもわくし(突然の天気雨)、右目と左目に映る別々の空もイメージされる。
 そしてもちろん、届きたいと切望しているのは、「きみ」でもある。空に手が届かないように、決して一つにはなれない他者。
 切望と断絶。

 で、つまるところ何なのかというと、天気雨は地上と空をつなぐ‘虹’を見せるんだなぁ……恐るべし、ラルクの一貫した象徴性。
 断絶を一瞬、架橋する虹。目に見える形となった、己の切望。儚く、真実な。
 

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finale ―滅びの風景―

 かなり好みですよー、この暗さ。ラルクの中でも暗さで1、2を争うかも知れません(forbidden loversも暗いけど、リズムのせいか、どっちかというと重たい感じがつよい。)。
 とにかく、このくらい暗いといいですねー。

 サビの部分はとてもオーソドックスに一音一字で歌詞が乗ってますが、それ以外のメロディは、不安定な揺れに言葉自体の抑揚が微妙に揺らぎながら乗っていて、とても不思議な雰囲気。
 歌詞の世界は「花葬」に一脈通じるような、退廃的で自閉的なイメージ。「月の隠れ家」なんてあたり、何となく吸血鬼系の感性ですね。とにかく、はまり過ぎなほどの退廃美。
 滅びの風景がこんなにも美しいのは、罪の世界を、それでも愛したいからなのかな...なんて思ったりして。「偽りの世界をぶち壊してしまえ」系の歌とは別種の、妙な情の深さを感じさせるのだ。情が深すぎて、人の道を外れるっていうこともあるしね。

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いばらの涙 ―永遠の希求―

 インパクトのある楽曲としては、『虹』に匹敵するかも知れない。
 楽器の一つとしてのhydeさんの声も含めて、ラルクというバンドの魅力全開だ(hydeさんはファルセットばかりが目立つようだけど、実に声の種類が多く、言葉を歌うことに長けている)。
 歌詞の世界は「虹」のようにストレートなメッセージではないけれど、言葉に力がある。

 非情な「天」、「支配者」に抗うスタンスは健在だが、どうもこの歌は、叛逆者というよりは、受難者、殉教者としての色彩が強い。
 「信じる魂を永遠へ導いて」くれと言い、歌の最後では、火刑で身体は燃え尽き灰になっても、「けがれて」いなかったら「貴方が連れていって」「抱いて」くれと歌う。「捧ぐ祈り」を「奪う支配者」が歌われているにもかかわらず、それでも、この歌の底には、祈りがあるように思えて仕方ない。

 それにしても、命を賭して何に殉じるのかといえば、歌詞の中に出てくる手懸りとしては、「貴方への心」くらいなのだ。ラルクの歌詞カードには誤植も少なくないので、あてにしていいのかどうか自信はないが、「貴女」でも「あなた」でもなく、「貴方」であるところが、少し気にかかる。
 何しろhydeさんは「貴方」に「連れて行って」「抱いて」とまで言っているのだから、尋常な入れ込みようではない。

 Shout at the Devilでは〈自分を作り出したもの〉への叛逆を高らかに歌いながら振りかざした〈真実〉、『虹』では、総てがそれとともにあると歌った〈真実〉が、この歌の叫び、或いは祈りを、向ける相手となっているのだろうか?
 ただしこの歌では、真実という言葉は、一度も歌われてはいない。

 「愛」という言葉なら二度出てくる。
 “愛なんて幻想だ”くらいのことなら誰にでも言えるけれど(そういう歌が売れるかどうかは別にしてね)、hydeさんの場合、愛は予め「幻想に埋れ」てしまっているのが前提で、その埋れた「愛」が「目覚め」ることを夢見る(これも二回目の逆立ちをやってのけた後の、世界の裏側の情景に見える)。
 もう一度出てくるときには、「ゆがんだ愛」とそれは呼ばれている。歪んだ愛なのか歪められた愛なのか、少々疑問は残るところだ。

 何しろ宿命めいた力に抗うことに、結果的にそれが徒労に終わるとしても、それでも生の意味を、永遠性を見出していく、リキの入った一曲。

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Heaven’s Drive ―世界からの逃亡―

 ノリのいいハードな曲調。アルバムのタイトルともなっている〈箱船Ark〉が歌のメッセージになっているようだ。

 hydeさんの詩にも、Dive to Blueのような明るいヤツもあるが、それはプライベートな次元の「幼い頃に見た朝焼け」の明るさ、幼年期の透明性に基づくポジティブさだと思う。
 もう一方で「虹」の前向きさは、一途な力強さ、希求する力だ。
 つまり、ラルクの明るさは「幼い頃」に象徴されるイメージ、ラルクの前向きさは「真実」に集約されるイメージを纏ってきたのだ。

 が、このHeaven's Driveの明るいメッセージは何なんだ。

 時代の閉塞感といってしまうと評論オヤジくさくて陳腐だが、つまりは、『死の灰』なんかが歌っているのは、このままの世界が続くはずがない、こんなことやってたらカンキョーオセンやゲンパツジコやその他モロモロ、いつか世界がダメになっちゃうでしょうよという、至極真っ当な皮膚感覚だったと私は感じている。
 かといって、そういう先細りな漠然とした不安の中で、「これを信じれば救われまっせー」というお手軽な答えに飛びつくのはウソだ、って、「死の灰」でも、「Devil's walk in the stroberry field」でも、hydeさんはそういうウソにはこれまた至極真っ当に敏感だ。
 だいたいにおいて、hydeさんが歌うのは未来への希望よりは破滅の願望の方に近い。「氷河期のリセット」(shout at the devil)とか、滅亡を否応なく焦れてしまうような絶望的な現状認識が、むしろ妥協のない真っ当さに見えて、私は好きなんだ。

 で、このHeaven's Driveはどうなんだ。

 「飽き足りない」「次は何が欲しい」「体は毒されていく」「生まれ過ぎた悪夢」……これらのイメージは、確かに、「君」との関係の中でのプライベートな次元での言葉ではあるのかもしれないけど、どうも、もう少し広い意味での、この世のどん詰まり感とも重なっているように思えてしまう。そう、もう少しパブリックな状況の話のようにも思えるのだ。
 だとしたら、「すべて吹き飛ばして」までは分かる。そうするしかないどん詰まり感は、少なくとも、現実の絶望的状況を過小評価していない。そこに自分の足元を置くのは、hyde氏的懐疑を勘案するなら、あながち無責任ではないと思うのだ。

 しかし、「道連れに罰を受ける前に」?「その箱船に乗って」?「鍵を手にして」?

 ……これは逃避なのか?

 パブリックな状況は、プライベートな飛翔によっては解消できないのではないか?
 いや、もちろん、パブリックなどん詰まりにパブリックな答えを出せなんて、思ってもみない。信じるとしたらお手軽な答えじゃなく、消せない真実とか、幼い頃の大切な何かとか、そういうところから現実の裂け目を求めるのが真っ当だとは思う。

 歌として聞くと、確かに、そのスピード感は垂直の飛翔であって水平の距離的な逃避ではないし、「光を求めて」いくのは世界が吹き飛んだ向こう側へだ。
 
 だからいい……のかな。
 
 ちょっと分かりかねる違和感が残る。うまく言えないな。また考えたら、書いてみます。
 ま、もちろんね、らしくなくたって別にいい。らしさなんて、所詮こっちの思い込みだから。でも、あたしはわからなさに、この歌を聞く度に、ちょっとスネてしまう。

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静かの海で ―重さを失くして―

 プログレっぽい展開のある力作。こういうの、また作らないのかな。演奏もヴォーカルも、たっぷり楽しめて好きです。

 懐かしさのあるSF的主題は、月の世界に一人残された者の、静かで透明な孤独。
 となれば、私としては当然、David BowieのSpace Oddityあたりを連想するわけです(打ち上げられっぱなしで宇宙の放浪者になったトム少佐は、後にAshes to Ashesでジャンキーだクズだと脱神話化され、貶められねばならなかったのですが……)。
 しかし、Bowieの頃とは時代が違うんですね。宇宙ロケットなんかいらない。もう、精神だけが、静かの海で地球を見つめてる。
 この違いは大きい。
 みっともない宇宙服なんか着ないで済むからいいよね。交差点でふと精神が浮遊してしまった瞬間、静かの海から地球を見てたりするかもしれないんだ。
 これはもうSFと言うよりは、純粋にファンタジー。時代の違いですかね。
 或いは、宇宙服やロケットって、自我の輪郭を守る堅固さの象徴だったのかもね。いわば、固い孤独。でもこの歌では、透徹した孤独にもかかわらず、自我の縛りは弱い…そんな気がする。地球からの距離の遠さが大事なのではなく、重力から逃れることが肝心。hydeさんの孤独は、重さを失くした魂の透明な孤独でしょう。

 「静かの海」って、〈自分の世界〉って感じ? 誰もいなくて、そこは天国のように孤独で、そこからなら世界全部を愛せてしまうような。
 ……そりゃ、「君は帰って」っちゃうよね。他の誰も留まれないから、自分の世界なんだもんね。
 その意味では自閉的甘ったれなんだけど、微妙にね、「I feel heavenly!」と叫んでる、その叫びが、切実なんだよね。
 人恋しさの叫びというだけでは、到底、尽くせない。
 世界からの疎外感の質が……なんだろう、最終的に“yes”と言ってるような……分かんないけど、とにかく甘ったれじゃない、厳しさも哀しさもひっくるめて泣きながら世界に頷き返しているような、不思議な感じがする。

 とらえきれない不思議。そういうとこが好き。

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snow drop ―出会いの順序―

 清冽なイメージに溢れた爽やかで可憐な一曲。
 春の訪れを予感し、長い眠りから目覚める世界を活き活きとした言葉で歌う。

 雪に閉ざされ白く凍てついた大地が色を取り戻し、「鳥たちの羽ばたきが」「人々の歌声が」響いてくる。ここで閉ざされていたのは大地・世界であるとともに、歌の始めではまず自分自身でもある。「積み上げた防壁」が崩れ去ると、最初に出逢うのは何よりもまず、「あの日の僕」の笑顔なのだ。世界が朝ごとに真新しかった、あの頃。
 そうして世界が蘇っていく様を、生まれたての「僕」が目撃してゆく驚きと喜び。目覚めた「僕」の目には、過ぎた冬の中に本当はあったのに見えていなかった「白いユキノハナ」さえ、「今なら気が付くはず」なのだ。
 そして何もかもが生命を取り戻し、鮮やかに蘇る世界の中に、「僕」はようやく、「あなた」を見い出す。「とぎれたレール」を自ら「絵の具でつぎ足し」て、「僕たち」は歩き出す。
 雪解けする一方かと思うと、歌の終りでは再び「あたたかな雪」が降り注ぐ。閉ざされていたのは世界ではなく僕の心だったのだから、名残の雪はもはや世界を閉ざすことはなく、「祝福」となる。そして「白いベールを被ったようだ」と言って僕が見つめている「あなた」は、もはや一人の女というより、この大地そのもののようでさえある。

 世界とあなたに出逢う前に、まず「あの日の僕」の笑顔を見つけなければならないあたり、結構、正直な歌だと思う。

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Shout at the Devil ―孤独な反逆者―

 自分を生み出した者、作り出した者への怒り。
 ケガレのない場所で自分だけ罪無き者で居続ける偽善への憤り。
 否定的な感情を歌っていながら、それほど甘えがない。どこぞでエラクはやったアダルト・チルドレンとは違って、“ママが僕をこんな風に産んだんだぁ、育てたんだぁ、謝れよぉ”というベタベタした感じは、少しもない。

 この歌の中の悪魔は、最大の〈善〉である叛逆の象徴であって、ミルトン的に崇高なサタンなのだ。偽善的な創造主を否定する悪魔の力は、「偽りの輝き」を「吹き消し」、「真実の旗」を「振りかざせ」と叫ぶ。ロック・ミュージシャンらしい立派な先導者ぶりだが、何より〈真実〉はここでも、彼方にあって傷付けることの出来ない絶対性の象徴となっていることが目を引く。
 ただし注意すべきは、絶対であるところの〈真実〉が何であるかを問わないという点だ。「これが真実だ」とか、ましてや「愛こそ真実だ」などとは、決してhydeさんは言わない。それを言ったら崇高なサタンたりえずに、陳腐なペテン師に堕してしまう。真実が何なのかは敢えて問わずに、ただ偽りを見抜き、打ち破ろうとする。世界が偽りなら世界を壊すし、自分が偽りなら、自分も滅ぼしてしまおう。こういう感じが伝わってくるから、甘えを感じさせないのだろう。滅びることなく在り続ける、無前提で無条件の真実こそを真実と呼ぶ非妥協的態度は、ストイックですらある。

 こういう歌を聞くと、「ああ、あたしも悪の心を忘れちゃいけないよな…」と思ったりする。

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DIVE TO BLUE ―幼年期の翼―

 軽快な疾走感。歌詞の世界は、〈恋〉の切ないときめき、〈幼年期〉の追想、そして〈飛翔、又は解放〉……この三つが結びつき、honeyと重なる主題を持っていると言えるだろう。

 恋が幼年期と結びつくというのが、hydeさん独特の感性かも知れない。恋するときめきが日常からの飛翔であるがゆえに翼を持っていた幼年期が蘇るのか。日常へ、常識へと頽落していくことを否定し、空へと沈んでいく自らの浮力を信じる。君に「大人にならないで」とまで言うのは、ちょっとリップ・サービスが入っているかな、とも思わないでもないが……。

 しかし、〈大人でないこと〉は、単に〈若さ〉を意味してはいない。ギャルは既に精神のおばさんであり、少女ではあり得ない。70年代のロックならばまだ、大人との断絶を〈新しい人類=ホモ・スペリオール〉としての選民意識へと無邪気に繋げてしまう歌が歌えたかもしれない。だが今では、自らの世代による世界の刷新と、果てしない未来を信じることは、相当に困難だ。
 この歌では、時間的な未来への〈水平〉の展望よりむしろ、〈今ここ〉における〈垂直の解放〉を、一瞬ごとに選び取る可能性に希望を見出す。「見なれた未来」や「定められた運命」を拒みながらも、彼自身は「幼い頃に見た朝焼け」を「今も覚えている」と、語らねばならないくらいには、幼年期を過ぎてしまっている。今や、大人でないことは、幼い日の大切な気持ちを覚えていることに他ならない。

 幼年期はそれ自体の若さとしてよりも、幼年期を追想する心の透明性において、より純粋な輝きを獲得するようだ。仮にタイムマシンで水平な時間軸を遡り〈あの日の朝焼け〉を見に行ったとして、手に入るものが想い出のみすぼらしさでないという保証はない。追想には、追想にしかない価値があるのだ。

 この歌で歌われている「青色」は「空」の青で、そう聞けば十中八九、晴れた青空をイメージするだろう。プロモは晴れた青空の映像だったと思うが、歌詞を聴く限りでは、この青は「夜空」の青という気もする。夜の半球では世界の総てが、濃藍から青の濃淡、そして銀へのグラデーションで描かれる。
 青は負った傷をいやし、包み込み、生まれ変わる色だとも言う。世阿弥も語った〈常住初心〉が、この歌の青色の中に見えはしないか……と言うのは、またも言い過ぎか。

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浸食~lose control~ ―無力な自我―

 変拍子だ!というだけでプログレの血が騒ぐ、凝った楽曲。70年代だったらたっぷり15分くらいかけて聞かせて貰えただろうに。ちょっと残念。
 しかし、こういうのをシングルでリリースするというのもなかなか大胆。

 無力な自我は蝕まれて、暴力的な衝動が爆発する。hydeさんの中にも、ジキル博士のハイド氏がいるのだろうか。「Mr. Fear」と名付けられた狂気、破壊衝動が、夜明けとともにやってくる。ただし、これはhoneyで待ち続けていた夜明けではなく、その太陽も透明な輝きではない。禍々しく傷口を抉り、影を焼き付ける。
 この歌の自我は最初からもう、まるで子供のように無力だ。ここで言う子供の無力な幼さも、honeyにおける純粋な不可侵性とはかけ離れている。傷付いたがゆえに傷付けることに快楽を覚えてしまう子供。他者と出逢う能力が欠けていたのか、単に巡り合わせが悪かったのか。

 こういう無差別な暴力性よりは、どちらかというと滅びに焦れるような破滅の方が、hydeさんには似合う気がするのだけれど、まぁ、暴力性は存在すること自体の宿命でもある。いずれ避けて通るわけには行かない。

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honey ―透明な飛翔―

 軽快な楽曲、印象的なサビのメロディ。とても透明な爽快感。

 基本的にはストレートなラヴ・ソングだ。が、それにしては何やら、やたらと障害が多そうな印象も受ける。道の途中で転んで「深い痛みはとれない」らしいし、「運命」も邪魔するようだし、挙げ句には「この世界が嘘」かも知れないという……これは一大事ではないか!

 それでも、この歌でhydeさんは「信じてほしい」と恋人に呼びかける。「この世界が嘘」かも知れないってときに及んで、何を「信じてほしい」のか。普通に考えれば〈僕の君への想い(=愛)〉なんだろうけど、どうも座りがよろしくない。何しろ「世界が嘘」だったら、その中にいる僕も君も嘘なのだ。世界が全部ウソでも、君と僕と二人の愛だけは信じていい……というのでも、もちろん歌にはなる。その場合、信じていい根拠は不明だが、まあ、信じるって無根拠なものよね、とは思う(根拠があるなら、それは信じてるんじゃなく、単に予測してるだけだ)。

 さて、この曲のはじめに歌われているのは、「幼い頃」からずっと抱き続けてきた大切な何か、だ。ちょっと「色褪せ」てきてはいるけど、誰も邪魔することのできない「真っ白な壁」に、今でもちゃんと「飾ってある」「その景色」。そして、あなたを連れていこうとしている先で「呼んでる」のもまた、「あの場所」なのだ。「あの場所」とは、「幼い頃」から見ていた例の「景色」に他ならない。子供の頃にははっきりと見えていた純粋な世界。それだけは「信じてほしい」、たとえ今この目に映る「世界が嘘でも」。……そういう歌なんじゃないか。
 遠く追想された純粋さが、未来へと遙かに投影される。個人的な幼年期への追想は、はるかに原初の楽園を思い出させる。
 さらりと「かわいた風」が吹いているのだから、多少汗をかいても平気、涙が出たって、すぐに乾くだろう。

 hydeさんは「限りない夢を」その「両手につかんで」、「あなたを連れてく」と豪語している(珍しく)。両手につかんだ夢が、そのまま彼の翼になってる……というイメージを喚起するのは、楽曲としての成功だ。何度か入る美しいファルセットでの、〈夜明けを待ちながら、僕は飛びたい〉という横文字のフレーズからも、地平線まで拡がっていく大きな翼が見えてくる。
 ……ああ、もしかしてこの歌を歌っているhydeさんは、明け方の夢の中にいるのかな。翼を失くさなかった魂には、なるほどこの世は生き辛かろう。

(ちなみに、honeyがなかなか強気な【躁】の歌だとすると、【鬱】ヴァージョンにあたるのがSell My Soulか。CDではこの二曲が並んでいるのだけど、まさかhoneyの埋め合わせでもないのだろうが、随分と後ろ向きに、似たようなテーマを歌っている)

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Pieces ―霧散する自我―

 これもうっかり聞いてるとただのラヴ・ソングかと思いそうだけど、やっぱりもう彼女はいない。
 いや、もしかするとこの歌の場合、いないのは‘僕’の方かも知れない。恋人を残して死んだ魂の歌ともとれるし。

 前に紹介した『winter fall』の、〈僕の中の君の欠片〉というモチーフを発展させたような、〈あなたの中の私のかけら〉の歌らしい。
 他者の中に刻印された自分、なのだけれど、どうやら当の「私」は無数の欠片になって散ってしまうイメージ。
 散ってしまうんだけれど、それを「はばたいてゆけ」と肯定的に歌ってしまうところがすごい。「私」というもののカタチなど、はじめから永遠でないと分かっている。

 この歌が「永遠」を歌うのは、あなたの中に続いてゆく私のかけら=命だ。
 遠い海を羽ばたいてひろがっていく無数の欠片を穏やかに見送って、自我を離れていく……うがった見方かなぁ。
 でも、この歌の透明感って、やっぱり霧散していく自我のゆえじゃないかな。

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winter fall ―他者との出逢い 出逢えなさ―

 明るくて軽快なラヴ・ソングかな……と思って聞いていると、意表をつかれて実は暗い歌詞を歌ってたりする。どうやら彼女はもういないようだし、よりを戻すには遅すぎるし、本人それを望んでもいないらしい。一人で思い出の場所にいるような歌なんだけれど、これがなかなかに一筋縄ではいかない。

 もういない彼女、失ってしまった恋人を、僕は今も僕自身の一部として感じ続けている……そんなイメージがある。彼女の欠片が、自分の一部になっている(これはのちにPiecesで、裏側からの投影を歌われることになる)。確かに君はいた、そして君と出会ったことは僕を変えた、その刻印が僕に残った。
 ただ他者と出会う、ということの意味を、失恋で感じているだけならば、何も面倒はない。ちょっと哀しいラヴ・ソングというだけのことになる。

 けどこの歌で、hydeさんは「空」に閉じこめられている感覚を歌っている。これは夜の半球の住人にしか実感できない閉塞感じゃなかろうか。うがった見方をすれば、この閉塞感は〈世界との出逢えなさ〉に繋がるかも知れない。基本的に「出逢う能力」を欠いた生き物であるにもかかわらず、否応なく他者と出逢ってしまう瞬間が訪れる。意志も信念も無力な、ただ一方的に訪れてくるだけの瞬間というものが、あるんじゃないか。そんなイメージが拡がる。

 出逢えなさと、出逢ってしまったことの刻印が、緊張関係の中で揺らいでいる……そんなラヴ・ソングに聞える。
 ……けど実は、この歌の最大の魅力は「永遠」を誓わずに「願った」、あのフレーズの切なさに尽きるのだけどね。

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虹 ―否応のない愛―

 ストレートな歌詞、インパクトのある楽曲。
 hydeさんにしては珍しくも……と思わずにはいられない、前向きでストレートなメッセージを歌っている。ベース・ラインも滅茶苦茶かっこよい(ラルクはかっこいいベース・ラインが多い)。
 珍しくも……というのは、とても前向きな歌詞だからなんだけれど、ただの元気前向きポジティブ・シンキングでは、当然、ない。
 相当なマイナスから出発して、ぎりぎりゼロを越えてプラスに顔を出すという類の前向きさで、エネルギーの絶対量はかなり大きい。

 タイトルの「虹」に託されているのは、「誰より高く空へと近付」いて、「輝き」と「光」を集める、頑ななまでの信念のような何かだと思う。遙かな空の高みへと求め続ける何かに、この歌では「真実」という言葉を当てている。hydeさんの詩の世界の中では、かなりストレートな「真実」観が表現されてる歌なんじゃないか。

 途中、気分を変えたメロディ・ラインに乗せて、なんつーかこう、“ナイフを握りしめた少年”的な、世界への怒り、純粋さと傷付きやすさが歌われている。しかし、その傷や痛みがそのままでは終わらない。
 続く間奏に重なるナレーション、これがとてつもない優しさなんだ。傷付く痛みによってこそ愛が生まれてくる(或いは、それによってしか愛は生まれられない)という、まぁ、言葉にしてしまえば陳腐な話なんだけれど、愛と痛みが数では釣り合わないって言うところがいい。

 「一つの傷を癒すには百の愛」が必要だけど、「沢山の傷」を負うことによってしか、愛は生まれてこない。
 これは哀しいかも知れないけれど、貴重なことだし、そんな風にして生きていくことが出来るなら、この生も無意味じゃないと思えてくる。
 勝ち目のない闘いみたいなんだけれど、闘うことには意味がある。
 そういう肯定の仕方って、とても好きだなぁと思う。
 愛することが素晴らしい、のではなくて、愛するしかないってことが、素晴らしいんだ、っていうか。

 私は……個人的に、愛っていうのは人間にそもそも備わっている属性ではないと思っている。執着とか独占欲なら人間の属性だけどね。
 だから、その愛が生まれてくるのが傷や痛みからでしかなく、傷や痛みは生きる限りどうしたって避けられないからこそ、人には愛が可能なんだ、っていうのは、とても分かる気がする。

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花葬 ―永遠の孤独―

 強烈なインパクトのある楽曲に、強烈なインパクトのある歌詞。
 私のイメージでは、花の下でなのか、花を抱いてなのか、或いは花の種を抱いてなのか、とにかく‘女と心中した’っていう歌なんだけれども、心中しても魂は一つになれないという孤独が感じられるのが、すごくいい。
(もしかしたら心中じゃなくて、死んだ恋人の骸を、誰にも邪魔されない場所まで運んでいっただけなのかも知れないけど)

 二人の肉体は土に還り一つになっていくんだけど、それを上から見ている魂は、相変わらず深い孤独の中にあるらしい。
 土に還って花が咲く、そうやって生まれ変わって今度こそ一つになる……というイメージ、にもかかわらず、この孤独感

 二人の恋を永遠にしようとしてたのに、永遠になったのは孤独の方だった、みたいな、世界を裏切ったがゆえに世界に裏切られるところまで行き着いたような、透徹した孤独を見て取るのは、ちょっとうがった見方が過ぎるだろうか。
 とにかく「永遠の恋」への絶望的な試みは、皮肉な孤独へと頓挫する。けど、それを頓挫として愚痴るのではなく、そういうものとして受けて立つ潔さが、いっそ心地良い。

 この歌の中でも特に素晴らしい一行は、詩的なイメージの連鎖になっている。

狂い咲いた」「咲いた」「夜に眠れぬ」「眠れぬ」「魂の旋律」……。

 お能の詞章を見るような、無意識を刺激される感動がある。
 そもそも、死んだ魂が語っているかのようなこの歌詞の世界自体、夢幻能の語りにとても似ている。

 もう一つ目を引くのは、「永遠の恋」と「欠けた月」が一つのフレーズの中に結びついているところだ。
 恋心を移ろいやすい月になんか結び付けたりしちゃいけないと、ジュリエットちゃんも言っているのにもかかわらず、だ。
 しかもご丁寧に、満月ですらない「欠けた」月を持ってくる。
 一面では、“月よ、お前は夜毎満ち欠けしながら巡り続けるだけだが、見ろ、おれ達の恋は永遠に変わらないのだーっ”とも解釈できないではないが、どうなんだろう?
 イメージ優先で捉えるなら、やっぱり、永遠の恋を映しているのが欠けた月なのであって、永遠は決して時間的な永続なんかではない、ということの方が、ぴったりくる。
 永遠があることを否定はせずに、その永遠が、人に、この世界に現われるときは、一瞬の儚さの中でしか実現しないという感覚があるんじゃないだろうか。
 これもうがった見方かな。

 ところで、ここで歌われている「花」は白いのか紅いのか?
 「滴は紅」なんだから、花は白い方が絵になるかと思う。真っ白な花に滴る血。
 hydeさんはどんな花をイメージしているのだろうか。樹に咲く花か、草花か。

 とにかく、これはラルクがいなければ現世に形をとって生まれてくることはなかっただろう一曲。この歌をもとに新作能が作れたらいいだろうな、と妄想は尽きない。

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hyde氏的懐疑

L’Arc~en~Cielの詞の世界

と、その他の歌(…David Bowie)。

hyde氏的懐疑は、この世の 〈夜の半球〉 の生まれに違いない…
普通ならば「永遠を誓」っちゃいそうなところを
「僕は永遠を願った」と歌い、
「何が愛なのか なにがxxxxか わからない…」とくれば、
十中八九「xxxx」には「真実」を入れそうなところ、
「なにがなのか」と歌う。

逆立ちを二回して、世界の裏側を見てしまうような…
hyde氏的懐疑のこと。

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ジョゼ・ボヴェ恩赦キャンペーン

 1ヶ月のご無沙汰でしたー(^_^;)
 ジョゼ・ボベ トークライブ in KYOTOも大成功に終わりました。もうひと月近く経つなんて嘘みたい……
 その後もアンケートの集計をやったり報告集を作ったりで、何やかやまだ後始末が終わってはいないんですが、随時Webの方に報告が上がると思います。

 11/19日、そのジョゼ・ボベに懲役14ヶ月の刑が確定してしまいました。
 今はフランス農民連盟が恩赦請求キャンペーンをやってますんで、日本からも是非メールやお手紙でボベっちを応援してください。「違法行為をしたから罰されるのが当たり前」なのではなく、「合法的に抗議するための民主的仕組みが欠けている場合、たとえ法に触れても、抗議する権利は我々にある」というのが非暴力直接行動の要点です。
 今回ボベが裁かれたのは、遺伝子組み替え作物に反対するデモンストレーションによってです。遺伝子組み替え実験用の畑で作物を引っこ抜くとか、組み替え種子の倉庫に行って通常の種子と混ぜてしまうとか、そういったデモンストレーションを行うことで、ボベ達は遺伝子組み替えに対する反対の世論をヨーロッパで喚起してきました。
 日本ではまだまだ、遺伝子組み替えといえば健康への懸念や、せいぜいが周辺環境への影響くらいしか意識されてないと思いますが、実は一番の危険は、バイオ企業による種子支配の問題なんです……。
 組み替え作物の種子には知的所有権がありますから、農民は翌年に播くため自家採種することを禁じられ、毎年種子と農薬・肥料・除草剤のセットを買わなければなりません。バイオ企業は食料加工や食品供給部門まで統合を進めていますから、「組み替え作物を作らなければアンタの畑で出来た作物は買い取らないよ」と農家に圧力をかけることが出来ます。先進国でも貧困国でも、同様のことが起きるでしょう。
 消費者も農民も望まない遺伝子組み替え作物が、バイオ企業の都合だけで押し進められてしまうなんて腹の立つこと。消費者の多くが遺伝子組み替えに対する根強い不安を持っているこの日本が、すでに世界一の遺伝子組み替え作物輸入国だというのも、やんなっちゃう話です。
 ボベ達が派手なデモンストレーションで世間の目を引いたおかげで、ヨーロッパでは遺伝子組み替え作物の持つ本当の問題点が認識されるようになり、今では多くの人々が遺伝子組み替え作物に反対しています。

 ボベは農民連盟の指導者の一人で、つまりは農民の組合指導者です。組合の指導者が1年以上もの懲役をくらうのは、フランスでは戦後はじめての暴挙だそうです。組合の指導者がデモンストレーションをやるのは当然のお仕事なのにね。「No!」をいう権利、抵抗する権利が無いとしたら、民主国家なんて屁みたいなもんですわ。

 恩赦キャンペーンについては日本語ページも用意ができました。農民連盟のページでは名前と住所を書き込むだけでメールを送信できるようになってます。 PDFファイルを印刷して署名集めも出来ます。選挙で投票に行くだけが民主主義じゃない。

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物語は和解する

 京都新聞にコラムを書いたことは、6月の近況でもお知らせしましたが、京都以外の方の目に触れる機会はないかと思いまして……遅くなりましたが、ここでアップすることにしました。
 他の執筆者の方でも、ご自分のサイトに掲載してらっしゃるみたいなので、たぶん問題無いのでせう。
 1200字の中にいろいろ詰め込んじゃって、単純化する代わりに少~し嘘になってるとこがありますね……物語とファンタジーの区別や、物語と現実の関係を、わざと曖昧にしてるとこがありますから。
 お暇ならご一読を。

京都新聞 2002年6月26日 文化面(18面) シリーズ名「双曲線」
  物語[ファンタジー]は和解する   ――裏切りや失敗は、世界から人への祝福なのだ

 人というものがある限り、物語がなくなることはない。ちょうど歌や踊りと同じように、物語は人が人としての精神を持ったときから人と共にあり、物語が滅ぶとき、人もまた滅びてしまうだろう。
 京都という町は物語に向いているかも知れない。現在のファンタジー・ブームの中では、京都はファンタジックな町ですらある。平安以前の痕跡と明治維新の史跡が肩を並べ、人間以外の異界の伝説さえそこここに名を残し、幾重にも時代と世界とが折り重なっている。この町自体が重層的な世界であり、それはファンタジーの世界観にふさわしい。安倍清明すら歴史上の人物というよりは一種のファンタジーとして若者たちを魅きつけているのではないか。
 私たちはずいぶん前から、科学や唯物論が、私たちの本当に知りたいことを説明してはくれないと気付き始めていた。物理法則と心理学に従い個の内面へ向かう小説のリアリズムが、どうやら応えてこなかった何かが、ファンタジーにはあるのかも知れない。ファンタジーを求める心を現実逃避だと切って捨てることはたやすい。だがリアリズムが見捨てる架空の世界は、この現実をはたから見る眼差しにもなりうる。妖精族の長老の目でこの現実を見るとき、私たちは居ながらにしてもう一つの世界の住人となる。なぜ人間たちはそんなことをする? なぜそうではなく、こうは生きられない? けれどその問いに答えるべきは、人としての私たち自身にほかならない。現実に問い掛け、問い返す、もう一つの世界からの眼差しは、それ自体がこの閉ざされた世界の出口であり、同時に、再び人としてこの世界と出会う入口でもある。
 リアリズム小説であれファンタジーであれ、すべてが作者の意図によって作り上げられていることにかわりはない。にもかかわらず、良質の物語はいつも、読者だけでなく作者をも裏切る。そして、計画された通り、意図された通りの表面が破れたところで、世界の秘密がふと顔を覗かす――物語の中であれ、現実であれ。そんな破れ目でこそ、人は他者と出逢い、世界と出会うのではないか。であればこそ、裏切りや失敗は、世界から人への祝福なのだ。世界を裏切り、世界に裏切られた物語の主人公は、ついに風の中で知ることになる――この風は私であり、風の中で揺れる草は私であり、この大地も、空も、初めから私だったのだ…と。そうしてファンタジーは密やかに、運命や世界との和解を紡ぐ。繰り返し、幾度でも。人が世界の中に在るために。
 子供の頃、私は今よりもっとたくさん、世界の秘密を知っていたと思う。ただ傲慢で、慈しまなければ失ってしまうということを知らなかった。だからもう一度探さねばならないのだ。世界の秘密を囁きかける、私にだけ見える密やかな徴(しるし)を。真夜中の洋服ダンスに、猫の欠伸の中に。細い細い二日月の明かりの下で。

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