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February 2001

February 13, 2001

唯名論的日常 nominalistic days

 ドストエフスキーを読み始めると、いつのまにかアレクセイ・ミハイロフ侯爵が現れる。
 亡命ロシア貴族で、去年か一昨年あたりから昵懇にしている。
 それまではスージーというアメリカ女が住み着いていたのだが、ミハイロフ侯爵が現れるとスージーは姿を消す。
 彼らの行動範囲はおおむね重なっており、私の肩から肩胛骨周辺、背骨の両側を腰の方まで、及び首筋一帯である。
 スージーとは長い付き合いだが、 ミハイロフ侯爵の存在感はさすが亡命貴族と言うべきか、尻軽のアメリカ女の比ではない。
 ずっしりと重々しく、根深い。
 特に首筋から頭全体、時には眼底部や顔面に及ぶ彼の影響力は、フランケンシュタインのネジが頭を締め付けているようだし、瞼に指をつっこんで目玉をほじくり返したい衝動にも駆られる。
 ちなみにダンナの背中には、右にゴンザレス、左にハリマオという強力な二大勢力が蔓延っている。更に言うならピカール・フランソワやツッチーというのも各部に住み着いている。
 パソコンやプリンターに名前を付けている人はわりと多いと思う。
 今のパソには名前を付けていないが、前のはエドベリ、その前はシーラ・Aという名前だった。
 ついでに言うと、居間の空気清浄機が竹埜丞、ガス・ファンヒーターが雪埜丞で、コタツの通電を司る「炬燵の精」(これが留守だとスイッチを入れても暖まらない)というのもいる。
 戦闘機乗りが愛機に女名を付けるのも良く知られている。
 このような人間の習性を、〈原初的な汎神論的心性の発露〉と解説しているのを何処かで読んだことがある。
 戦争とか、ハイテクに取り囲まれた環境とかが抑圧する原初的な心性が、バランスを取るために表面に現れてくるのだという。
 それも一つの見方である。

 記号の意味対象に普遍的な共通本性を認めない唯名論の立場では、名辞が多様になっても事物は多様化しない。俗流に理解される汎神論とは対立する立場であって、唯名論に於いては〈神性〉と〈神の叡智〉は一つにして同じである。
 だから、たとえミハイロフ侯爵が故国から家族を呼び寄せても、ここにあるのは私の背中であり、肩であり、首筋でしかない。

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February 06, 2001

ベビー・グレース・ブルー

 この年になって「毒気に当てられる」体験をするのは珍しい。
 感覚の鋭敏な十代の頃ならともかく、トンガッたモノも、いいかげん見飽きたような飽和した時代に、「毒気に当てられる」とはね。
 ジュリーがないかなーと思ってBOOK OFFに行って、何気なく「やっぱ買っとくか」と思って手にしたBowieのアルバム。
 『OUTSIDE』
 95年のリリース。酒鬼薔薇事件より前か?

 ストーリー性のあるアルバム作りはウン十年前からBOWIEのおはこだけど、これはまたひときわ毒のあるコンセプト。
 14才の少女ベビー・グレース・ブルーの死体は、美術館の玄関先で内臓を蜘蛛の巣のように張り巡らされ、切断された四肢がそこに絡み、胴体と頭部がそれを見上げていた……アート・クライム──芸術犯罪。

 現実がフィクションの上を行くような今時なのに、BOWIEが暴いて見せるイメージの数々は、現実の更に先を行っている──あるいはその根底を。
 生温い不凍液の中でハッと正気に戻った気分。
 しかもこれが六年も前のアルバムとは、聴いて呆れる。

 北沢杏里のヘボな和訳はいい加減にして欲しい。誤訳だらけで恥ずかしいぞ。

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