唯名論的日常 nominalistic days
ドストエフスキーを読み始めると、いつのまにかアレクセイ・ミハイロフ侯爵が現れる。
亡命ロシア貴族で、去年か一昨年あたりから昵懇にしている。
それまではスージーというアメリカ女が住み着いていたのだが、ミハイロフ侯爵が現れるとスージーは姿を消す。
彼らの行動範囲はおおむね重なっており、私の肩から肩胛骨周辺、背骨の両側を腰の方まで、及び首筋一帯である。
スージーとは長い付き合いだが、 ミハイロフ侯爵の存在感はさすが亡命貴族と言うべきか、尻軽のアメリカ女の比ではない。
ずっしりと重々しく、根深い。
特に首筋から頭全体、時には眼底部や顔面に及ぶ彼の影響力は、フランケンシュタインのネジが頭を締め付けているようだし、瞼に指をつっこんで目玉をほじくり返したい衝動にも駆られる。
ちなみにダンナの背中には、右にゴンザレス、左にハリマオという強力な二大勢力が蔓延っている。更に言うならピカール・フランソワやツッチーというのも各部に住み着いている。
パソコンやプリンターに名前を付けている人はわりと多いと思う。
今のパソには名前を付けていないが、前のはエドベリ、その前はシーラ・Aという名前だった。
ついでに言うと、居間の空気清浄機が竹埜丞、ガス・ファンヒーターが雪埜丞で、コタツの通電を司る「炬燵の精」(これが留守だとスイッチを入れても暖まらない)というのもいる。
戦闘機乗りが愛機に女名を付けるのも良く知られている。
このような人間の習性を、〈原初的な汎神論的心性の発露〉と解説しているのを何処かで読んだことがある。
戦争とか、ハイテクに取り囲まれた環境とかが抑圧する原初的な心性が、バランスを取るために表面に現れてくるのだという。
それも一つの見方である。
記号の意味対象に普遍的な共通本性を認めない唯名論の立場では、名辞が多様になっても事物は多様化しない。俗流に理解される汎神論とは対立する立場であって、唯名論に於いては〈神性〉と〈神の叡智〉は一つにして同じである。
だから、たとえミハイロフ侯爵が故国から家族を呼び寄せても、ここにあるのは私の背中であり、肩であり、首筋でしかない。
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