言葉の夢
朝食をとる前に昨夜の夢を語ってはいけない...と、ベンヤミンは言った。
理由は文学的すぎて、私にはよく解らない。確か、「食べる」ことによって身体の「みそぎ」をして目覚めさせないと、体は半ば夜の世界に属したまま、昼の意識が夜の世界を裏切ることになるから...だったか。
とにかく、朝食を食べてから、もう一度読み返して、それからアップしようと思ったのでした。
本当は、「言葉の夢」を見ても、ほとんど覚えていることはない。
浅い眠りの中で、文字と声と思考だけが、絶え間なくすごい勢いで流れていく。
言葉に追いつけなくなって、目を覚ます。
ひどく疲れてしまうのが殆どだ。
どんな言葉があったのかも、大抵は思い出せない。
論理の脳、あるいは合理的思考が、言葉に復讐されているように感じることもある。
ごくたまに、もう少し慕わしい「言葉の夢」もある。
映像が混じることもあるし、文字は無くて声だけの時もある。文字と声が、思考ではなくエモーションをかき立てることもある。
目覚めても覚えているのは、そんな「言葉の夢」だ。
ほんの時折の、流れ星のようなもの。
☆その1
十代の終わり頃に見た言葉の夢。
高校生だったか、大学に入った後かは覚えていない。
「言葉の夢」といっても、これは映画の予告編のようだった。それも、SFアニメ大作の予告編という感じだ。マンガばっかり読んでたから仕方ない。
燃え上がる月面基地、墜ちていく宇宙ステーション、惨事の片隅に取り残されて抱き合う恋人たち...いくつかの場面がカット・バックしながら、三度に分けて、一行ずつ字幕が入る。わずかにズームアップしながら。
どうか...
人間たちを
責めないでください
今となっては大仰すぎてお恥ずかしいばかりだけど、まぁ、そういう時代の気分だったし、そういう気分の年頃でもあった。涙が出るほどのエモーションだったのは確か。
言葉が持つエモーショナルな力は凄まじいと思った。
今の自分からは出てこないだろう言葉だけれど、こんな祈りがどこかにあるのは、それほど悪くないと思う。
エモーショナルな祈りは、所詮、センチメンタルなものでしかないけれど。
☆その2
いつの夢だったかは覚えていない。たぶん二十歳前後の数年。大学時代だったか。
これも映像付きの、どちらかというとコマーシャル・フィルムのような夢だった。
列車に乗っている。画質はやや不鮮明で、解像度が荒い。
車両の一番後ろ、連結部分に立っている。扉は開いている。草原と木立の風景が流れていく。
一本の煙草に火を点つけると、言葉が流れ出した。
主よ 私は今
この旅立ちを祝福する煙草を
とても神聖な気持ちで吸っています
これは文字の言葉ではなく、声の言葉だった。つまりは、夢にナレーションがついた感じ。
でも映像に言葉が付いたというよりは、言葉が雰囲気を纏ったような夢だった。
とても解放された、自由な気分で目が覚めた。
親に隠れて吸う煙草って、結局、どれほどひ弱であれ、自由の狼煙の代替物だったんだよな。
ま、こんな喫煙賛歌、今じゃJTのコマーシャルでも流せやしませんが。
☆その3
これは数年前の夢だ。
「言葉の夢」の、もっとも本質に近い一つ。
映像はない。背景画像も定かではない。
ただ真っ暗闇ではなかった。
ぼんやりと白い、遠い空のような視界だったと思う。少なくとも、そんな空気だった。
誰のものでもない声で、言葉が聞こえた。
はくぼたんでんか
白牡丹殿下が仰るには
真の貴族的精神は 現実を単なる事実の相で受け入れることが出来ないのだという
びっくりして目が覚めた。
そして、「ああ、これでいけるじゃないの!」と思った。
物語作品を書き始めた頃で、カタカナ名前のファンタジーでは大人の読者が受け入れてくれないことに頭を悩ませていた。カタカナ名前を止めようにも、現実の世界、現実の時代に舞台をとることは、私にはまだ早かった。
何処でもない何処か、いつでもないいつか。物語なりのリアリティをどうやって書けるのか、解らずにいたときだったのだ。
そこへ、まったく思いもかけず、「白牡丹殿下」なる固有名詞が降ってきた。
これで書ける! と、書き上げたのが、「銅貨一枚分の物語」だった(→こちら)。
私にとっては、まさに「言葉のお告げ」。言葉の神霊に触れたのではないかとさえ思えた。
言葉が象徴性をとどめたまま降りてきた、希有の体験。
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